第四章:仮面と皮膚のあいだに
朝、イオリはいなかった。
けれど、それは裏切りではなく、やさしさだった。
「ここにいるよ」と言い残して、そっと姿を消すような、静かな気配。
テーブルの上には、まだ温かさの残るマグカップと、折りたたんだ紙ナプキン。そこには、たった一行の文字があった。
『今日は“イオリ”として頑張ってくる』
レンはそれを読み、眉をひそめるでも、笑うでもなく、ただ無言で手に取った。
「頑張る」という言葉が、これほど静かに胸を締めつけるものだとは思っていなかった。
昼過ぎ。レンは派遣先の事務所にいた。
席に着くと、斜め後ろの同僚――浅野という男がひそひそと話している声が耳に入った。
「さっき来た取引先の人、なんか声、ちょっと高かったよな」
「……ああ、いたな。雰囲気もなんか柔らかいっていうか、ちょっと女っぽかったかも」
「もしかして、ああいう感じの人? 最近分かんないよなー」
「まあ、あんまり突っ込まないほうがいいって。今の時代、変に言うとやばいからw」
(“ああいう感じ”?)
(……まさか、イオリのことを言ってるのか?)
(でも、なんでそんな目で見るんだ。別に誰に迷惑かけたわけでもないのに)
レンは声を発しなかった。口の中に浮かんできた言葉はすぐに沈んで、奥歯の裏で消えていった。手元の書類に視線を落としたまま、ペンの先を握りしめる力だけがじわりと強くなる。
昨日、イオリが何を言っていたか思い返す。
社会の中では「疑われたくない」と、そう言っていた。
けれど、たった一瞬の気の緩みが、「仮面の隙間」を見せてしまったのかもしれない。
レンは拳を握った。
怒りじゃない。悔しさでもない。
ただ、痛かった。自分の皮膚の下にまで、誰かの嘲笑が入り込んでくるようで。
夜。レンは再び「YEN」の扉を開いた。
イオリは、すでにいた。昨日と同じ席。昨日と同じネクタイ。だけど、何かが違っていた。
「……イオリ」
レンが声をかけると、イオリは顔を上げて、いつもより少しだけ遅れて微笑んだ。
「レン。……来てくれて、嬉しい」
「嬉しい」という言葉の裏に、どれだけの「しんどさ」が隠されているか、レンはもう気づけるようになっていた。
「……今日、誰かに言われた?」
イオリは少し驚いたように目を見開き、すぐに視線を落とした。
「……分かるんだね。やっぱり、君には」
「当たり前だろ。俺たちは同じだよ」
イオリは笑った。けれど、その笑みは脆かった。
「でも、同じだからこそ怖いよ。君を守れないかもしれないって、思ってる」
「守るって、何から?」
「世界から、俺から、レン自身から」
レンは、言葉に詰まった。
イオリの目の奥にある絶望は、他人に向けられたものじゃない。それは、自分が自分を裏切ってきた数だけ蓄積した、無数の小さな破片だった。
「……イオリ。俺さ、ずっと思ってたんだ」
レンはカウンターに指を滑らせながら、ゆっくりと話し始めた。
「この世界では、俺たちはヴィランなんだと思ってた。普通を乱す
“悪者”で、存在するだけで誰かを不快にさせてしまう。でもさ……」
そこで言葉を止め、イオリの目を見る。
「本当に悪いのは、違いを恐れて、黙って傷つけてくるあいつらじゃないの?」
イオリは、驚いたように眉を動かした。
それは、レンが初めて“怒り”を吐き出した瞬間だった。
今まで、笑ってやり過ごしていた。
自分のことを「変だ」と言う声に、ただ黙ってうつむいていた。
でもそれは、怒る価値さえないと諦めていたからだ。
本当は、ずっと叫びたかった。
「俺は、ヴィランでいい。善人なんて、もう目指さない」
レンのその言葉に、イオリは静かにうなずいた。
「なら、僕も」
「……お揃いだね」
灯がカウンターの奥で、そっと二人のグラスを拭いていた。
彼は何も言わない。ただ、音楽のボリュームをほんの少しだけ下げてくれた。
静かな夜に、二人の呼吸が重なった。
その静けさの中で、レンは思った。
(もう、どんな名前で呼ばれてもかまわない。だけど、“俺”は俺だと、この人の前でだけ、言い続けたい)
初めてそう願えたことが、涙が出るほど嬉しかった。
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