最終章:ヴィランたちの虹

 春が近づいていた。

 通りには桜の蕾が膨らみ始め、風が冬の匂いを手放していく。

 けれど、変わるのは季節だけだった。社会の温度はまだ冷たく、レンとイオリの関係は、あいかわらず“名前のないまま”続いていた。


 


 ある日、イオリがレンに言った。


「職場で、噂が立った」


 それは、始まりだった。


「“女みたいな声の人間と付き合ってる”って、誰かが言ったらしい。俺、否定しなかった」


 レンは驚かなかった。

 ただ、それがどれほどの代償を意味するかを知っていたから、静かにイオリを見つめた。


「……本気なの?」


「うん。本気。正直、怖かった。でも、君の手を握った日から、何かが変わったんだ。“このままでいい”って思うのをやめた」


 


 そして数日後。

 イオリは職場を辞めた。


「君のせいじゃないよ」と笑って言ったけれど、その笑顔の奥に沈んだ疲労の色を、レンは見逃さなかった。


 イオリが社会を“降りた”その日、レンは何も言えなかった。


 


 春の雨の日、二人はいつものバー「YEN」にいた。

 灯は、あいかわらず余計なことは言わず、静かに酒を注いだ。


「ねえ、イオリ。……後悔してる?」


 レンが尋ねた。

 イオリは一瞬だけ考えるそぶりを見せたあと、首を振った。


「してない。でも、君が後悔してるなら、俺は逃げるよ」


「逃げないで」


 その言葉は、震えていた。

 レン自身が驚くほどに、痛みと願いが滲んでいた。


「俺、ずっと誰かに“正しく”生きろって言われてきた。男ならこうしろ、女ならこうしろ。泣くな、笑え、黙れ、笑わせろ。……でもさ、今思うんだ。俺の人生、他人の指示で動くラジコンじゃねえって」


 イオリは目を細めた。その瞳には涙が光っていた。


「レン。君が言ってくれるなら、俺、ヴィランでいいよ」


 


 彼らはきっと、社会にとっては“逸脱”だった。

 見た目も、声も、振る舞いも、制度の中に収まらない。


 でも、だからこそ。

 だからこそ、出会えたのだ。


 


 ある日、レンはXにポストした。





タイトル:「ヴィランたちの虹」


拝啓、Dr.Durand-Durand


僕たちは今日も、社会の片隅で呼吸している。


正しくなれなかった。善人にもなれなかった。

けれど、誰かを不幸にすることなく生きていこうとした。

それだけで、世界から“悪役”のラベルを貼られた。


でもね、僕はもう、その名前すら誇りたいと思ってる。

「ヴィラン」であることは、誰かの期待を壊すことじゃない。

ただ、「自分」を生きることだった。


誰も知らない、知られたくない皮膚の下で、愛は確かに脈打ってる。

この虹が見えるのは、たった一人でいい。

あの日、名前のない愛に出会えた君だけで。


――レンより





 投稿ボタンを押したあと、レンは窓を開けた。

 外では雨がやんでいた。


 空に、虹が出ていた。

 淡く、静かに、でも確かに。


 この虹は誰にも見えないかもしれない。

 だけど、もうそれでいい。

 レンも、イオリも、自分たちだけの世界で確かに生きている。


 仮面をつけたまま、それでも笑える場所へ。

 幸福は、定義なんて要らない。

 それぞれが、それぞれの名前で呼ばれる未来を、彼らは少しずつ手繰り寄せていた。


 


 ――僕は、もうヴィランでいい。

 それが、俺たちの、ささやかな肯定だ。


 


(終)

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