第三章:その名を呼ぶには
数日が過ぎた。
イオリは現れなかった。
レンはそれが正しいと思ったし、そうあるべきだとも思った。
だが、胸の奥で何かが抜け落ちたような空洞が、どんどん大きくなっていくのを止められなかった。
昼間の雑踏がうるさい。
電車の窓に映る自分の顔が、知らない誰かに見える。
まるで、自分という存在がこの世界からゆっくりと剥がれ落ちていくような気がした。
レンは思った。
もしこのまま消えても、誰が困るのだろうか――と。
ある雨の日、レンは会社を早退した。
小さな派遣事務。性別欄は「男性」に丸をつけている。
そこで「レンくん」と呼ばれながら、できるだけ波風立てないように過ごしていた。
けれど、どれだけ頑張っても“浮く”のだった。
「君ってなんか……不思議だよね」
「その声、ちょっと高くない?」
「もしかして……彼女とかいないでしょ?」
違和感を、優しさに包んで投げつけてくるような言葉たち。
笑って流せる日は少しずつ減っていた。
コンビニのビニール傘を通して見える景色は、歪んでいた。
レンは、自分の部屋の前で立ち止まる。
(終わってしまえばいい)
そう思った瞬間だった。
アパートの階段の下に、誰かが立っていた。
傘をささず、ずぶ濡れのまま、イオリがそこにいた。
「……何してるの?」
声が震えていたのは、冷たさのせいではなかった。
レンは、自分の心音が耳の奥で強く鳴っているのを感じていた。
「待ってた。君に、もう一度会いたくて」
イオリの表情は変わっていなかった。
だがその頬に流れていた水が、雨なのか、涙なのか、レンには分からなかった。
「……バカじゃないの? 何でそんな……」
「君に言われた通り、来ないつもりだった。でも……無理だったんだ」
イオリは一歩だけ前に出た。
レンは身体を強張らせた。怖かった。イオリが何を言うのか、何を望んでいるのか、自分がどう応えたくなってしまうのか。
「俺は、“男”だよ。世の中はそう見るし、俺自身、もうそれでいいって思おうとしてきた。でも、君の前では、どっちでもいたくなかった。ただ“レン”でいたかった。……それだけで、俺は、もう――限界なんだよ」
イオリは黙って聞いていた。
そして、何かを噛みしめるようにゆっくりと、目を閉じた。
「僕も……君の前では“イオリ”でいたい」
「は?」
「職場では“結城くん”と呼ばれてる。家では“長男”として振る舞う。社会では“男性”であることを疑われたくない。でも、そんな肩書きとか役割とか、全部脱ぎ捨てて、名前だけで立っていたいんだよ。君の前では」
レンは、初めて知る感覚に襲われた。
言葉では説明できない、でも確かに“理解した”という感覚。
それは恋ではない。
でも、明確に「誰か」として出会ってしまった瞬間の感情だった。
「上がってく?」
レンは玄関の鍵を開けながら、小さく言った。
イオリはただ、静かにうなずいた。
部屋の中は変わっていなかった。けれど、空気が違っていた。
二人とも、無言のまま向かい合った。
イオリは、レンを見つめながら言った。
「触れても、いい?」
レンは、目を伏せた。
“触れる”という言葉が意味するすべてが、自分の中に響いた。
そして、静かに首を振った。
「……今は、やめて。俺は、まだ誰かに“選ばれる”ことが怖いから」
イオリは、ためらいなくその言葉を受け入れた。
「わかった。じゃあ、ただそばにいる。……それじゃダメ?」
レンは、初めて小さく笑った。
「……ダメじゃない」
それが、この夜の答えだった。
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