第二章:侵害の距離

 レンはその夜、いつものようにバーを出て、アパートまでの夜道を歩いていた。

 喧騒から少し外れた場所。古いが比較的静かな木造二階建ての一室。玄関を開けて、脱いだスニーカーを揃え、扉を閉めた瞬間、背中から疲労が一気に押し寄せる。


 スイッチを押すと、裸電球が天井で揺れた。

 部屋は6畳。ベッドと小さな棚、あとはラックにかけた数種類の服。どれも男女の境界を曖昧にするようなデザインだった。モノトーン、アシンメトリー、袖の長いもの。レンは鏡に映った自分の姿を見つめた。


(誰なんだろう、これは)


 そこに立っている人間を、自分だと信じ切ることができなかった。

 男としても、女としても扱われない。それでも、何かになりきらなければいけないような社会の中で、レンはずっと「中途半端な仮面」を使い分けてきた。


 その夜、夢にイオリが出てきた。


 彼は笑っていた。まるで最初からレンのすべてを知っているように、真っ直ぐに。レンは叫びたくなった。

 ――知りたいって言ったくせに、何も知らないくせに。


 




 数日後、レンは再び「YEN」に現れた。

 イオリはもういた。カウンターではなく、レンのいた前回と同じ席に。


「来ると思った」


 それは、自信ではなく確信のような声音だった。


「来るか来ないかは、俺が決める」


「それでも君は来た。話がしたかったんだろ?」


 挑発でも誘惑でもない。ただの事実確認のような言い回しが、逆にレンを不安定にした。

 イオリには何かが足りていなかった。だからこそレンをまっすぐ見ていた。対等な人間としてではなく、渇き同士として。


「俺のこと……気持ち悪いって思ってない?」


 レンの問いは、あまりに急で、鋭かった。

 イオリはしばらく黙っていた。グラスの縁を指でなぞりながら、やがて静かに首を横に振る。


「違うってだけで、人を気持ち悪いと思ったことはないな」


「世の中は、そうじゃない」


「……世の中、全部嫌いなの?」


 レンはその質問に答えられなかった。

 好きだったことはある。でも、それもいつしか「嘘」に変わった。


 


 その夜、二人は店を出てからもしばらく並んで歩いた。

 会話は少なかったが、不思議と気まずさはなかった。まるで、誰にも知られたくない“皮膚の下”の温度だけを確かめ合うように、二人の距離は静かに縮まっていった。


 アパートの前まで来て、レンが立ち止まった。


「……ここ、俺の部屋。狭いし、汚いよ」


「見せてくれるの?」


「見たって、がっかりするだけだ」


「それでも、君を知りたい」


 その言葉に、レンは耐えられなくなった。


「……そんなこと言って、どっちなんだよ、君は。俺のことを“男”として見てんの? それとも“女”として見てんの?」


 イオリは驚いたように目を見開いたあと、しばらく何も言わなかった。

 レンは肩を上下させていた。自分でも、なぜ怒っているのか分からなかった。ただ、「選ばれる」ことを恐れていたのかもしれない。


「……どっちとしても見てない。俺は君を、“君”として見てる」


 それは理想的すぎる答えだった。

 美しすぎて、偽善に聞こえた。


 レンは何も言わず、背を向けた。


「帰れよ。……もう、来るな」


 


 その背中に、イオリは何も言わず、立ち尽くしていた。

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