第3話 美雪
森から出ると、花壇の隣にベビーカーを停めて、女性が待っていた。
やはり、自宅からほど近い複合商業施設近くで、何度かすれ違った女性だ。
あそこからベビーカーを押して来てるのか?
相当な距離があるぞ。
近くで見ると、子供の公園散歩というラフな服装ではない。
モデルのようなスラッとしたスタイルに、襟までパリッと糊の利いた淡いブルーのブラウス、OLのような黒のタイトスカートに黒いパンプス。
ショルダーバッグをかけたら、そのまま通勤出来る格好だ。
「ありがとうございます。助かりました」
両手をへそ辺りに揃え、45°の角度で一分の隙も無いお辞儀をする女性は初めて見た。
大企業の社長秘書か何かだろうか。
ショートボブにまとめた髪がはらりと垂れるのを目の当たりにし、あろうことか見蕩れてしまった。
何という美しい人だ。
黄金比で形作られた容姿バランスはひと目で分かる。
女性の声が魂に共振し、揺さぶられ沁みる感覚は初めてだ。
その外観と相まって、この世の者ならざる神々しい存在に思えてくる。
「いえいえ、困った時はお互い様ですよ。ミューキーちゃんですか。真っ白で綺麗な猫ですね。」
適当な受け答えをしてしまったのは自覚しているし、あらぬ想像を巡らせてしまってもいる。
こんな女性をモデルに写実画を描くことが出来たら、さぞ楽しかろう。
心の内が顔に出ていたのかもしれない。
それとも心が読めたりするんだろうか。
「お手数おかけしました」
そう答えながらも、真正面から向き合う彼女の目は笑っておらず、どちらかというと警戒しているようにすら見える。
無理もないか。
30過ぎで日中からこんなところでボーッとしてるヤツを警戒しない方がどうかしてる。
「さぁ、飼い主さんだよ」
そっとミューキーを渡す時、少しだけ彼女の手に触れたが、不思議なほど冷たい気がした。
「お帰りなさい。冒険は楽しかったですか?」
女性はミューキーに優しく話しかけながら、左腕で支え、体、手足の順に怪我が無いか獣医のような手際の良さで確認している。
耳や口の中、目を確認しながら、こんな質問をして来た。
「ところで、何か変わったことはありませんでしたか?」
しゃべったような気がしたことを伝えるべきか?
それで頭がおかしいやつだと思われるのも困る。
触れない方が良いだろう。
「変わったことと言いますと? 子猫は初めてでして」
「いえ、気が動転しておかしなことを聞いてしまいました。お忘れ下さい」
「ご心配、わかりますよ」
ひと通り確認が済んだようで、ミューキーをそのままベビーカーに乗せた。
ベビーカーには、1歳くらいの赤ちゃんが乗っていて、隣に置かれたタオルの中がミューキーの居場所のようだ。
「仲良しなんですね」
「えぇ。この子は美雪といいます」
くるくるとよく動く目で、俺を見ている。
知らない人がさぞかし物珍しいのだろう。
だけど、美雪ちゃんの動きからは何か違和感を感じる。
もしかして、身体が不自由なんだろうか。
ずいぶん体を動かしづらいようだ。
そして全くの無表情だ。
それでも懸命に俺を目で追おうとしている。
「美雪ちゃん、好奇心旺盛ですね。1歳くらいですか?」
「はい、もうすぐ誕生日なんです」
赤ちゃんと猫を一緒のベビーカーに乗せて散歩するなんて聞いたことがない。
普通はぬいぐるみとか人形なんじゃないか。
「この子たちには深い絆がありますから、常に一緒に行動しているんです」
先回りして答えたのは、ベビーカーを覗いた人が、皆、同じ質問をするからだろう。
「リードとか、ハーネスとか付けないんですか?」
「ご心配は分かりますが、この子を縛るようなことはしたくないのです」
「またこんなことがあると危ないですよ」
「そうですね。しっかり言い聞かせておきます」
この子?
言い聞かせる?
美雪ちゃんのこと?
いやいや、子供だって1歳では言い聞かせても無駄だろう。
「ところで、明日もこちらにいらっしゃいますか?」
「来ると思いますよ。私の散歩コースですから。といっても天気次第ですがね」
散歩コースなんて嘘だ。
カウンセリングを受けた後、目についたベンチに座って、うな垂れていただけだ。
それでもメンツは保ちたかった。
「そうですか。今回は私の不注意で、とんだご面倒おかけしました。機会がありましたら、また、お会いしましょう」
「はい。また是非」
深々とお辞儀をしてから、ベビーカーを押して、先ほど犬が吠え合っていた方へと去って行った。
遠ざかる後ろ姿を見送りながら、大切なことを忘れていたのを思い出した。
「はぁ。名前くらい、聞いておくんだった」
明日から、ここまで散歩に来よう。
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