第2話 ミューキー 

 高さが40cmほどある花壇の柵を跨いで緑地に足を踏み入れた。

管理された緑地は雑草もほとんど生えておらず、地面も適度に耕されてふかふかした感触が気持ちいい。

 柔らかな木漏れ日を感じ、目を閉じると梢を渡る風の音、野鳥のさえずりが気持ちをほぐしてくれる。

だが目を開くと、木々の向こうに灰色のビルが視界に飛び込んでくる。

ここはビルの谷間にある都市公園なのだ。


 公共緑地は、名前に"公共"と付いていても、何の理由も無く立ち入れば軽犯罪法違反で捕まってしまう。

 原因を作った環境保護団体は、指導者は捕らえられ、20年くらい前に団体自体も解散している。

それなのに、いまだに条例だけが生きているのは理不尽な話だが、今の世の中なんてそんなものだ。

『人工林は悪だ』と破壊活動を行う人間がまた現れるなんてことは無いと思うのだが。


 それはともかく、子猫が迷い込んだ今なら、警官に見咎められても軽く注意を受けるだけで済むだろう。

今だけは、なかなか立ち入れない緑地を堪能するのも悪くない。



 昨年の暮れに亡くなった爺さんから、こんな話を聞いたことがある。

その昔、この辺り一帯は広大な雑木林が広がっていた。

しかし伐採され、真っ直ぐに育つからという理由で杉に植え替えられたという。

おかげで膨大な量の花粉が飛散し、アレルギー症状が国民病とまで言われたそうだ。

なんと狂った政策だったんだろう。


 今は、そんな杉林も雑木林に植生が戻され、オオムラサキやノコギリクワガタなんかも普通に見られる"豊かな森"が人工的に再現されている。

俺が初めて"森"に入ったのは、小学校の課外授業の時だった。

昆虫採集の課題で、虫など見たことが無い同級生がギャーギャー騒いでいたのをよく覚えている。



 森の中を散策するのは気分が良いものだ。

自然散策の癒やし効果を活用すれば、俺のような人間のカウンセリング費用だって、多少は抑えられるんじゃないだろうか。

時間限定でいいから、森を開放してくれたっていいだろうに。


 考えごとをしながらも、目は白い子猫を探していた。

緑地内に雑草は少ないものの、等間隔にある窪みのせいで死角が多い。

実際には、コンクリートで出来た2m角のブロックマットを網目状に敷設してあるため、盛り上がっているといった方が正確かもしれない。

 どちらが正解かはともかく、窪みの中まではひと目で見通すことは出来ず、しらみつぶしにチェックするしかない。

近付かないと見えないのは、地味に面倒だ。


 花壇から30mほど進んだろうか。

ブナの大木の影にあった窪みに、真っ白な子猫がうずくまっているのが見えた。

急に近付いたら驚いて逃げ出してしまうかもしれない。

そう思って、優しく声をかけながらゆっくりと近付くことにした。


「こっちにおいで。でっかい犬、怖かったよな。もう大丈夫だよ」

子猫は声に反応して俺の顔を見上げた。

人にはそれなりに馴れてるのだろう。

逃げる素振りは無い。


だが、鉛筆のように細い尻尾を身体にピタッとくっつけて、細かく震えている。


「ミュー……」


 子猫の声を直接聞いたのは初めてだ。

甲高く、か細く、そして心細い声に感じる。


 あと2mくらいだ。

もう少し近付いても大丈夫だろうか。

パッと飛び出せるように身構えながら近付くと、かえって怖がらせてしまうだろうか。

まさか驚いて木に登ったりしないよな。


じりじりと距離を詰める。


 目が合ったが、怖くて尻込みしているのか、うずくまったまま動こうとしない。

まさか怪我してないよな。


 頼むから逃げ出さないでくれよと、心の中で祈りながら両手を子猫の方にそっと差し出した。


 今は大型犬よりも、帰る方向すら分からない事実の方が恐怖だったのだろう。

子猫は、疑うことも、迷うことも、フラつくことも無く真っ直ぐに小走りで駆け寄って来た。

 あまりにあっけなかったので、このまま足下を駆け抜けて行くんじゃないかとドギマギしてしまったが、そんな心配はいらなかった。

子猫は俺の手の中に身を投げ出すように飛び込んで来たのだった。


「よしよし。もう大丈夫。怖くないよ」

両手でそっと抱き上げながら声をかけたが、その手触りと軽さに驚いた。

こんな感触は初めてだ。

以前、友人宅で触ったどの猫よりも柔らかく、艶やかな毛並み。

これが子猫なのか。

 足やお腹についた枯れ葉や小枝を指でつまんで捨て、背中を撫でてやると少し安心したようだ。

首輪も付けていない、ただの子猫だが目には明らかな安堵の表情が浮かんでいる。

これならもう大丈夫だ。


 そう確信し、ゆっくりと立ち上がって公園に戻ろうとした時、腕の中から予想もしなかった声を聞いた。



「ミューキー、コワーカッニャ……」



危うく子猫を放り出すところだった。


俺の聞き間違いか?

いったい、どんな知能強化を施せば猫がしゃべれるようになるというのだ。


「おい、今、なんて言ったんだ?」

つい、問い詰める口調になってしまった。

さっきまで、あんなに安心した表情をしていたのに、また震えだしている。

これでは、しゃべれたとしても萎縮してしまうだろう。


いや、やっぱりあり得ない。

しゃべるなんてばかばかしい話だ。

あぁ、そうだとも。

猫がしゃべってたまるか。


そう思いつつも、ひょっとしたら?と、もう1度、優しく問いかけてみた。


「ごめんな。びっくりして強く言い過ぎた。お前しゃべれるのか?」


 子猫は警戒しているのか、それとも怒られたと感じたのか。

叩かれるのを恐れるかのように、耳を横にピンと張った、俗に言うイカ耳のまま、じりじりと腕の中で後ずさりしている。

信頼を失ってしまったみたいだ。


よその家の猫だとしても、嫌われるのは地味に堪える。



「ミューキー!」


あの女性が子猫を呼ぶ声が聞こえた。

ベビーカーを押して森に入るわけにはいかないから、入り口辺りで呼んでるんだろう。

この子猫はミューキーというのか。

耳をピンと立てて声のした方向を見つめ、帰りたそうにもじもじしている。


「分かったよ。帰ろうな」

落ち着かせようと軽く背中を撫でてから声に答えた。


「おーい! 見つけたぞ。 連れてくから待ってろよ」

腕の中でミューキーが俺の顔を見上げた。

常識的にありえないのは分かっちゃいる。

だが、その安堵したような表情はいったい何なんだ。

まさに言葉を理解しているような反応だ。


 それよりも今は、ミューキーを送り届けることが最優先だ。

優しく背中を撫でつつ森の出口へと歩を進めた。

わずか30〜40mの距離だが、ここで逃げられるわけにはいかない。

でこぼこに躓かないよう注意しながら歩を進めるが、1分とかからずに森の入口まで戻ることが出来た。

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