美雪とミューキー

よしなし つづる

出会い

第1話 坂崎 翔画

 一念発起、脱サラして画家になり、もうすぐ5年が過ぎようとしていた。


 作家名は少しカッコ付けて坂崎 翔画しょうがを名乗っている。

絵で羽ばたけるように『翔画』にしたんだが、名前とは裏腹に鳴かず飛ばずで寂しいことになっている。

この5年で羽ばたいて行ったのは時間と貯蓄だった。


 友人の多くは同じ32歳だというのに、仕事で大成したり、幸せな家庭を築いたりしている。

それに比べて俺は、平日の真っ昼間っから、こうして公園のベンチに座ってボーッと噴水を眺めてるだけだ。

あいつら、本当に同い年なのか?



 今もバッグの中にはスケッチブックや鉛筆が入っているのだが、出す気にすらならない。

理由は分かってんるだよ。

つい1時間前にカウンセリングで言われたことが原因だ。


 今は昔と違って、複数の専門医の診断結果をカウンセラーが集約して患者に説明、告知するスタイルが一般的だ。

病状と精神状態をセットで面倒みることになるのは、心の病を患っている場合や、不治の病に侵されている場合は特に効果が高いという。


 俺も妻を交通事故で亡くしてから2年になる。

あれから続く無気力状態は、喪失から来るごく一般的な鬱症状だ。

俺の様にネグレクト寸前まで墜ちてしまう者も少なくないと聞いていた。


だけど、それだけじゃなかったんだ。


 俺も、この町で密かに進行している白痴化の影響を少しずつ受けているというじゃないか。

白痴化の小難しい正式名称も聞いたが、そんなことはどうだっていい。

問題は症状だ。


 白痴化すると、人はまず無気力になる。

次にキレやすくなり、記憶が曖昧になり、最後には何も分からなくなり寝たきりになってしまうという。

だが進行はとてもゆっくりで、初期症状で気付くことは、ほぼ無いらしい。

それって、まるで何十年も前に根絶されたアルツハイマーと一緒じゃ無いのか。


どうしてそんな病気が、この2080年代になって流行し始めたというのだ。


 もし、その事実をまともなカウンセラーから聞いていたのなら、ここまで落ち込まなかったかもしれない。

 前時代的ナース服に身を包んだ高齢看護師から感じたのはミイラの臭いだった。

案内されて入ったカウンセリング室から感じたのも安らぎではなかった。

薄暗い室内は患者を落ち着かせる効果を狙っているのだろうが、裏腹だよ。

照明を意図的に抑えた高級ホテルと、薄暗くてカビ臭いボロアパートくらいの落差があるじゃないか。


 このカウンセラーを指定した片山は、元クラスメートの神経外科医だ。

あいつに何か恨まれるようなことでもしたか?


そして、なぜ俺が……30代で、こんな病を発症するだなんて。


 帰りがけに見た『カウンセリング 堤』の看板は目立たない地味なものだった。

だが、そこにはこうあったんだ。

『終末期告知・緩和ケア専門』と。

そう。この白痴化は、いまだ原因も治療法も無い不治の病と言われているのだ。

1つ分かっているのは、メンタルが弱く、ネガティブな人間の方が進行が早いということ。

残された時間は、短くて半年、長くて7〜8年。

今の俺では半年以上は無理かもしれない。



 ネガティブな感傷にどっぷり浸っていた時、公園の反対側では騒ぎが起こっていた。

けたたましく吠え合う2頭の犬。

どちらも大型犬で、知性強化を施していない旧来の品種らしい。

 現代では、あんな制御が難しい生物兵器のような犬を飼ってるのは、ごく一部の物好きだけだ。

といっても、知性強化が普通になり、しつけの文化が途絶えたのが原因というだけで、犬が悪いわけではない。

ちゃんと躾が出来ない飼い主が悪いだけだ。


 左の茶色は若い成金っぽいヤツが飼い主か。

右の黒いのは弱そうなおっさんだ。

どっちも甘やかしまくってるんだろう。

 2頭ともすでに飼い主のことなど眼中になく、今にも噛み付かんばかりの勢いで吠え合っている。

それに、リードを力任せに引っ張るだけでは、飼い主のコマンドなど聞くはずもない。


「まったく飼い主は何やってんだ。人が心底落ち込んでるってのに」

イライラした感情が、つい口を突いて出てしまった。


 右の黒い方が、上手くフェイントを使って飼い主を引き倒すことに成功した。

おっさんは、倒れた拍子にリードを離してしまったようだ。

黒い犬は自由になったことに気付くと猛ダッシュし、おっさんの周りを興奮して走り回っている。

 僅か100m先でリード引き摺って暴走する大型犬がいるなんて、かなり危ない状況だ。


「ったく、言わんこっちゃ無い」


 黒い犬は、そのまま吠え合っていた茶色の方に襲いかかるわけでもなく、追いかける飼い主と楽しげに追いかけっこに興じている。


「ジョン! 待て! こらっジョン、待てったら!」

ジョンっていうのか。

頼むからジョン、こっちには来るなよ。

 正直、ネガティブを絵に描いたような俺は、常にハイテンションな犬という生き物は苦手だ。

こんな時に俺のような無関係な人間に災難が降りかかるのも世の常だ。

祈りも虚しく、ジョンは真っ直ぐこちらに走ってくる。


「うわっ、こっち来た」

どうする!?もっと早いうちに避難しておけば良かったと後悔していると、ジョンは途中で急ターンし、華奢な女性が押すベビーカーへと突進していった。

あ、あの人はいつもすれ違う……。


 声をかける間もなく、ベビーカー脇を猛スピードで駆け抜けるジョン。

その時、ベビーカーから白い何かがこぼれ落ち、こちらの方に転がるように来るのが見えた。


あ、あれは!?


 ベビーカーから転がり出したのは小さな白い子猫だった。

恐怖で身を低くし、芝生を越えて小径を横切ると、花壇の柵をくぐって雑木林の中へと逃げ込んで行った。


 都市部の公園には、条例によって設置された公共緑地というものがある。

昔からの緑地を保護していることもあれば、新規に造成するすることもある。

新規造成だと、都市の構造パネルが剥き出しになっていることが多いと聞く。

パネルにはインフラ配管が通っており、定期修繕や増設に使うメンテナンスピットが設けられている。

 本来はピットにカバーをかけるものだが、このご時世、予算をケチってフルオープンな場合がかなりあるようだ。

そんなピットから電送トンネルに小動物が迷い込んだらフラッシュオーバーで一巻の終わり。

文字通り炭になる。


だが、運が良いことに、ここは保護緑地だ。

子猫が迷子になるくらいの危険しか無いだろう。


 チラッと女性を見ると、犬の飼い主が引き留めて謝罪でもしてるんだろう。

早く子猫を追いかけたいだろうに、おっさんにペコペコ頭を下げられても迷惑なだけだ。


俺は逃げ込んだ先を目で追っていたから、子猫を保護するのは造作も無い。


「それに、見てしまったからにはしょうがない。子猫を助けに行くとするか」

膝をポンと叩いて、ベンチから立ち上がった。


 誰かに聞かせたかったわけではない。

自然と前向きな言葉が出て来たのは、これから良いことがあるという予感か、それともトラブルに立ち向かおうという決意の表れか。

感情の変化によって、運良く白痴化の進行を遅らせることだって出来るかもしれない。

 どちらにしても、この2年間の鬱状態を打開することになるだろうし、なんといっても2年ぶりのポジティブな感情だ。


誰もこの言葉を聞いていなかったことだけが残念だった。

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