カブトムシの夢
奈良まさや
第1話
真夏の太陽が、容赦なく頭上から降り注ぐ。ケンタは虫かごを握りしめ、汗をぬぐうことも忘れて森の奥へと分け入っていた。狙うは、大きくて艶やかなカブトムシ。鼻をくすぐるあの甘い匂いをたよりに、クヌギの木へと近づくと、幹の樹液に夢中になっている一匹が目に入った。
そっと手を伸ばし、指先がその黒光りする甲羅に触れた瞬間、視界が揺らぎ、足元の重力がふっと反転したような感覚に襲われた。
次に目を開けたとき、俺は細く柔らかな人間の手を見下ろしていた。……いや、それはケンタの手だ。そして、かごの中では俺の抜け殻――カブトムシの身体がジタバタと暴れている。そう、俺とケンタはいつの間にか入れ替わってしまっていたのだ。
最初は戸惑いしかなかった。あの堅牢な甲殻を脱ぎ捨て、こんなにも脆く、繊細な身体になるとは。しかし、地面を二本の足で蹴り出した瞬間、その安定感と背中を撫でる風に心が高鳴った。飛ぶことしか知らなかったあの頃とは違う、確かな「自由」がそこにあった。
もっと驚いたのは、「言葉」だった。フェロモンだけで想いを伝え合っていたあの世界とは異なり、人間は音で、表情で、心を交わしていた。ケンタの友達は、学校の話やゲームの話題、人気のアニメまで楽しそうに語ってくれた。
中でも「スイカ」の衝撃は忘れられない。ひと口食べた瞬間、シャリッと弾けた果肉からあふれる甘みが火照った喉を冷やし、これまでの樹液漬けの世界が霞んで見えた。
日々が、発見の連続だった。教室のざわめき、公園での鬼ごっこ、夜に布団の中で読む漫画のときめき。人間の暮らしは、カブトムシだった俺の想像をはるかに超えていた。
だがある日、公園で友達とキャッチボールをしていたとき、ふいに思い出した。あの森の中、虫かごの中のケンタのことを。小さな世界に閉じ込められたまま、混乱しているのか、あるいは新たな虫の命に順応しているのか。想像するたびに、胸の奥が締めつけられた。
その夜、ケンタの両親が眠りについた頃、俺はそっと家を抜け出した。月明かりに照らされながら、あのクヌギの木を目指して歩く。虫の声が響く森の中、鼻先にあの甘い匂いが届いたとき、そこに懐かしい姿があった。
虫かごの中で、俺のかつての身体――カブトムシの姿が静かに佇んでいた。
「……ケンタ」
かすれた声でつぶやくと、かごの中の甲殻がかすかに震えた。確かに、ケンタの意識がそこにある。そう確信した。
「……ごめんな」
そのときだった。森の奥から柔らかな光が差し込み、まるで空気が変わったような気配がした。やがて、神々しさを纏った存在が姿を現す。
「珍しいね。人間になったカブトムシが、元に戻りたがるなんて」
その声は穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。
「せっかく人間になれたのに、まだ味わい尽くしてもいないだろう? 恋も、夢も、食も。人間には、たくさんの楽しみがあるんだよ」
「でも……」俺は小さく首を振った。「俺は、本来ならもう寿命を迎えているはずのカブトムシです。ケンタには、人間としての時間を、全部まるごと味わってほしいんです。俺のせいで、それを奪いたくない」
神はしばし沈黙し、静かにうなずいた。
「君の願い、確かに受け取った。では、その思いに応えよう」
光がふたたび俺を包み込む。意識が遠のいていく中、俺は微笑んでいた。
――四十年後――
ケンタはベッドの中で目を覚ました。
……あれは、夢だったのだろうか。
彼は生まれつき弱視で、光をわずかに感じる程度の視力しか持っていなかった。子どもの頃は、孤独と不安の中にいた。でも、何度も見るあの夢――カブトムシのあの夢が、いつも彼の心をあたためてくれた。
小さな足で踏みしめた大地の安定感、誰かと交わす言葉のやさしさ、シャリッとしたスイカの冷たさ。そして、誰かのために自分を差し出すことの尊さ。
彼はそっと眼鏡を手に取り、ベッドから体を起こす。今日も点字の書類に向かい、好きな音楽を耳にしながら、隣で微笑む妻と日常を分かち合う。
「ありがとう、カブトムシ」
静かな声でそうつぶやくと、胸の奥に、あの日の光がふわりと灯るのを感じた。
――僕はカブトムシだったのか、それとも人間だったのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
エピローグ
あの日のカブトムシは、今もケンタの心の中で羽ばたき続けている。
見えないものの中にこそ、美しい光があると教えてくれた、小さな命の面影が、彼の人生を優しく照らし続けているのだから。
カブトムシの夢 奈良まさや @masaya7174
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