結末
午前三時。部屋の空気が、妙に澄んでいた。
冷たい水の中に沈んでいるような感覚。
窓も、扉も閉まっているはずなのに、肌の表面を風が撫でていく。
「――また、だ」
壁の向こうから、コツン。コツ、コツ。
今度は、前よりもはっきりと聞こえる。
梓は、立ち上がった。
ノートパソコンを閉じ、ペンを手に取り、
日記の最終ページを開く。
そして書き記す。
「203号室は、ある」
「私がいた」
「私もまた、思い出される側になる」
押し入れの奥にあった、小さな扉。
封印されていたはずのそれは、いつの間にか開いていた。
まるで、自分が開けたかのように自然に。
梓は手を伸ばし、躊躇いながら、その中へと足を踏み入れる。
中は真っ暗で、呼吸の音すら吸い込まれていくようだった。
空間は、思ったよりも広い。
押し入れの奥とは思えないほど、どこまでも、どこまでも奥へと続いている。
やがて、闇の中で、足が何かにぶつかった。
しゃがみ込み、触れてみる。
――それは、自分が使っていたマグカップだった。
欠けたところまで、まったく同じ。
そして、そのすぐ隣にあったのは――
自分のノートだった。
日記帳、ではない。
仕事で使っていた、自分専用の、生活の痕跡。
「……なんで、ここに……?」
誰も答えない。
ただ、奥から、かすかな音が響いてくる。
ガリ……ゴト……ガサ……
誰かが、何かを探している音。
梓は、そっと立ち上がった。
手探りで壁に触れながら、戻ろうとする。
――が、後ろを振り返ると、扉がなかった。
どこにも。
光も差さず、風も感じず、壁も床も、ただ均一な闇に溶けていた。
歩いた距離、方向、記憶すら曖昧になっていく。
やがて、重力の感覚も消えていく。
音も、冷たさも、身体の存在すら、少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
――そして、次の瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
「〇〇不動産の若林です。内見のご予約でお越しになりましたか?」
扉の前に立つのは、就職活動中の青年。
ノートPCとファイルを抱えた、どこにでもいそうな20代の男だった。
彼は軽く頭を下げ、スニーカーを脱ぎ、部屋に上がった。
目の前には、整えられた、無人の一室。
「……へえ、静かでいいですね。駅からも近いし」
彼はそう呟き、窓の方へ歩いていく。
と、その時――ふと、机の上のメモ帳に目がとまる。
一枚だけ、手書きの文字。
薄いボールペンの跡。
「この部屋は、“誰かの記憶”にある」
青年は首を傾げながらも、それを読み、笑ってつぶやく。
「……なんだ、洒落っ気のある演出ですね」
彼の背後――押し入れの戸が、わずかに、音もなく開いた。
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