推理
翌朝、梓は早くに目を覚ました。
目覚めた瞬間、どこかがおかしい、と直感した。
カーテンの位置が違う。
机の上のメモが、一枚減っている。
昨日、読みかけだった本のページが戻っている。
――自分の部屋で、誰かが何かを「元に戻した」ような痕跡。
急いで、スマホを確認した。
保存していた名刺の写真。
やはりそこには、「〇〇住宅」と記されていた。
けれど、梓は確かに、「〇〇不動産」の若林という男から名刺を受け取った記憶がある。
受け取って、玄関の靴箱に置いた――
梓は玄関へ向かい、靴箱の上を見た。
……名刺は、なかった。
代わりに置かれていたのは、白紙のメモ用紙一枚。
その中央に、小さな字で書かれていた。
「ご入居、ありがとうございました」
現実を確かめようと、梓は区役所に出向き、不動産登記を確認した。
建物の登録情報。土地の区画。部屋番号の割り振り。
公式には、二〇三号室は存在しない。
設計図にも、建築申請にも、間取り図にも。最初から、“なかった”ことになっていた。
それならば、自分は今、どこに住んでいる?
「202号室です」と答えたとき、確かに不動産屋はうなずいた。
物件情報にもそう書かれていた。
――だが、その“不動産屋”は、どこに?
名刺の電話番号にかける。
応答音のあと、機械的なガイダンス。
「おかけになった番号は現在使われておりません」
メールを送ってみる。送信できない。
住所をネットで調べてみる。地図に表示された場所は、空き地だった。
梓は思った。
この部屋は、誰が貸してくれたのか?
契約書に署名したのは事実。初期費用も、敷金も払ったはず。
けれど、口座の履歴を見ても、「送金先」は空欄だった。
自分の行動に、どこか「なかったことにされている」部分がある。
夜になり、パソコンを開いた。
事件のあったという五年前の記事をもう一度探す。
検索結果に、その記事はなかった。
URLを覚えていたはずなのに、「ページが存在しません」とだけ表示される。
キャッシュページも削除されていた。すべて、痕跡ごと消えていた。
代わりに、気味の悪い掲示板の書き込みを見つけた。
>「〇〇アパート、二〇三号室」
>「住んだ人間が、記録から消えるって噂」
>「最後に日記に残してたらしい。“ここは誰かの記憶の中にあるだけ”って」
自分のことを、言われているような錯覚。
だが、すべてを論理的に説明しようとすれば、まだギリギリ可能だった。
――押し入れの奥の扉?
→疲れた頭の幻覚。
――名刺の変化?
→記憶違い。名刺をなくしたのも、初めからなかっただけ。
――日記?203号室?
→過去の住人の妄想。何かと混ざって、自分も不安定になっている。
すべては、説明できる。
ただし、「203号室の存在」を認めなければ、という条件付きで。
コツ、コツ、コツン。
その夜、またしても、壁の向こうから音がした。
カレンダーを見た。
今日の日付――〇月〇日。
そういえば、メモ帳の中にあった“最初の日記”と、同じ日付だった。
すべてが、ここに収束している。
あの日、あの人が聞いた音を、今、自分が聞いている。
そして、次の瞬間、梓は確信した。
この部屋で過ごした日々は、「誰かの記憶の再生」だったのではないか――
自分がこの部屋で暮らしていると思っていた時間そのものが、
誰かの痕跡をなぞるように設計された“記憶の部屋”だったのではないか。
論理では、すべて説明がつく。
でも、それは「ここが現実だ」という前提を、無条件に信じられるなら――の話だ。
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