反転
土曜の午後。部屋の掃除をしているときだった。
押し入れの奥、畳の上に直置きされていた古い段ボール箱。前の住人が置いていったのかと思い、手に取った瞬間、梓は一瞬だけ――体がきゅっと縮こまるような感覚を覚えた。
埃をかぶった箱は軽く、持ち上げると中から、紙の束がこすれる音がした。蓋を開けると、古びたメモ帳が一冊と、数枚の写真、それからボールペンが入っていた。
メモ帳には、日記のような走り書きがあった。震えるような字で、ページの端にまで押し込まれた文字。
▽▽▽
〇月〇日
隣の部屋に人がいる。声はしないけど、確かに何かの気配。ずっと壁の向こうで立ってるみたいな……
〇月×日
2時14分。壁を叩かれた。規則的に、3回。何かの合図みたいだ。昨日も同じ時刻だった。やっぱり俺に何かを伝えようとしてる?
〇月△日
外に出た。靴が濡れていた。履いた覚えはない。夢の中で、誰かが俺の身体を使って出歩いてる?
〇月◇日
隣の部屋は……存在していない?
▽▽▽
ページの端に、妙に濃いインクでなぞられた一文があった。
押し入れの中に、もう一つの扉がある。
梓は反射的に押し入れを開けた。
襖を左右に開き、奥をじっと見つめる。
古い木の壁。とくに何も――
いや。
手を伸ばすと、壁が薄くたわんだ。
ベニヤ板のようなものがはめ込まれている。その裏に、何かがあるのだと、すぐにわかった。
何も考えず、梓は引っ張った。
板は意外なほど簡単に外れた。
現れたのは、古びた鉄扉だった。
取っ手はなく、表面は錆びついていたが、中央に“203”と書かれた金属プレートがついていた。
――203号室?
意味がわからなかった。隣の部屋じゃないのか? どうして、自分の押し入れの奥に203号室の扉がある?
掌を当てたとき、扉の内側からノック音が返ってきた。
コツ、コツ、コツン。
梓はその場で飛びのいた。心臓が跳ね上がる。
がたん、とどこかで音がして、電気が一瞬だけ落ちた。
部屋に戻って照明を点け直すと、扉は消えていた。
板も、押し入れの奥のたわみも、どこにもなかった。
その夜、梓は眠れなかった。
ノートパソコンを開き、検索窓に「○○アパート 二〇三号室 間取り」と打ち込んだ。
出てきたのは、古い不動産情報サイトのキャッシュページ。
小さな間取り図に目を凝らす。
そこには、二〇三号室の部屋が存在していなかった。
201、202、そして204号室。だが203だけが、空白になっていた。
ぞっとした。
五年前の事件のあったはずの部屋が、元から“なかったこと”にされている。
記録からも、構造からも、203号室だけが排除されていた。
じゃあ、あの濡れた靴は?
壁の音は?
押し入れの奥の扉は?
日記に書かれていたことは、全部――?
もう一度、メモ帳を見返した。
最後のページに、かすれた文字でこう書かれていた。
“203号室に住んでいるのは、あなたです。”
梓は、震える手でスマホを手に取った。
不動産屋の名刺を撮った写真を開く。
そこに書かれていた会社名は、「〇〇不動産」。
しかし今見ると、名刺の印字が変わっていた。
「〇〇住宅」――電話番号も、メールも、見覚えのないものになっていた。
画面の明かりがやけに冷たく感じられた。
部屋の空気が、静かに、確実に変わっていくのがわかる。
203号室はない。
では、自分が今住んでいるこの部屋は――どこなのか?
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