警告

 その日、洗濯物を干していたら、階下から声をかけられた。


 「――おはようございます。引っ越してきた方?」


 振り向くと、一階の端の部屋から、年配の女性が顔を出していた。毛糸のカーディガンを羽織り、洗濯物かごを抱えている。


 「あ……はい、そうです。二〇二号室に」


 「まぁ、そう。やっぱり。若い人が来るの、久しぶりだから」


 彼女は小さく笑い、物干し竿にバスタオルをかけながら、ぽつりと言った。


 「今はもう、上の部屋、あんまり人住まなくなっちゃってねぇ……」



 梓は少し考えてから、なるべく軽い口調で尋ねた。


 「あの、二〇三号室って、誰か住んでますか?」


 「え?」


 女性の手が止まった。


 「お隣さん。引っ越してきてから、靴があるのは見るんですけど……顔は見たことなくて」


 「ああ……二〇三……」


 女性は、ゆっくりと視線を逸らした。風が少し吹いて、タオルが揺れた。


 「……そう。あの部屋、昔ね、男の人が住んでたのよ」


 「……はい」


 「何年も前になるけど……ほら、誰にも気づかれないまま、亡くなってたって」


 梓は言葉を失った。


 「夜中に、ずっとテレビがついててね。下の部屋の人が、変だって管理会社に言って。それで入ったら……」


 声が少し小さくなった。


 「もう、ずいぶん日が経ってたみたい。部屋の中、ひどい状態だったって聞いたわよ」


 風の音がまたしても吹き抜けた。


 女性は、言ってはいけないことを口にした、というように黙り込み、タオルをもう一枚物干しにかけた。



 梓はその日、早めに部屋に戻った。

 そして、ノートパソコンを開いて検索を始めた。 


 大島◯るに🔥マークが表示されている。「○○アパート 二〇三号室 事故」「○○アパート 孤独死」――

 あまりに直接的すぎるキーワードすると、すぐにいくつかの記事が見つかった。


 地方のニュースサイト。アーカイブ。日付は五年前。

 「中年男性が自宅で死亡」「死後三週間以上経過」「身元判明遅れる」「精神的に不安定だった可能性」

 そして、部屋番号は――二〇三号室。


 間違いなかった。


 けれども、それは「隣の部屋」の話であって、自分の部屋じゃない。

 そう自分に言い聞かせながら、梓は画面を閉じた。


 その夜、壁の音はしなかった。

 代わりに、夢を見た。

 


 誰かが玄関のドアを叩いている。チェーン越しに見ると、濡れた服の男が立っている。

 顔はよく見えない。ただ、黙って立っている。

 ドアを開けようと手を伸ばすと、男が口を開いた。


 「お隣、空いてますか?」


 目が覚めたときには、背中が冷たく濡れていた。

 


 朝、カーテンを開けると、玄関の前にまた濡れた靴が置いてあった。

 きちんと揃えられて、まるで「今日もいますよ」と言うように。


 梓はそれを見て、ふと気づいた。


 濡れているのに、玄関マットに水の跡がない。


 誰かがそこに置いて、誰にも見られずに持ち去っているのだ。


 それは、確かに存在していて、同時に存在していないものだった。


 ……梓はまだ知らなかった。

 この部屋と隣の境界が、どこからどこまでなのか、本当は誰にもわからないことを。

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