暮始
初めのうちは、何もおかしなことはなかった。
むしろ、驚くほど快適だった。
引っ越して最初の朝、目覚めた瞬間に感じたのは、音のなさだった。
アパートの上階も下階も、どうやら誰も住んでいないらしい。廊下を歩く足音も、壁越しの話し声も、生活音もなかった。
まるで時間が止まっているみたいだ、と梓は思った。
ネットはすぐにつながり、在宅の仕事も問題なく始められた。コンビニまでは歩いて五分、バス通りも近い。スーパーも、坂を下ればそれなりにある。
“安さには理由がある”と友人に言われていたが、今のところその理由は、ただ「古いから」だけのようだった。
――ただ、いくつか気になることはあった。
たとえば、隣の部屋。203号室。
引っ越し当初から、誰が住んでいるのか、まったく姿を見ない。
郵便受けには何も入っておらず、インターホンの下に貼られた名前のシールは、日焼けして読めない。
でも、夜になると、玄関の前に靴が置かれている。いつも濡れている。
雨なんか降っていなくても、びしょ濡れの、くたびれた革靴が一足だけ、きちんと揃えて並んでいる。
次の朝には、きれいに消えていた。
ある夜、梓が仕事を終えて寝ようとしていたときのことだった。
布団に入った直後、壁の向こう側から、コツ、コツ……コツン。
はじめは気のせいかと思った。でも、しばらく耳を澄ましていると、また音がした。
コツ、コツ……ゆっくりと、一定のリズムで、まるで壁を指先で叩くような音。
寝つけなくなった梓は、スマホを開き、メッセージアプリで友人に打ちかけてやめた。
こんな話、笑われるだけだ。第一、何が言いたいのか自分でもわからない。幽霊? いやいや。
それに、壁を叩くくらい、誰だってやるだろう。
そう思って目を閉じたが、その夜はなかなか眠れなかった。
さらに数日後。
外出して夜に帰宅すると、玄関の鍵が、開いていた。
出かけるときは、確かに閉めた。閉めたはずだった。
泥棒に入られた様子はない。財布もパソコンもそのままだった。
けれど――
ふと、押し入れの襖が、数センチ開いていた。
引っ越し当初に閉めたままだったはずなのに。
……風?
いや、それにしては、襖の隙間から何かがこっちを見ていた気がした。
梓はそれ以上考えないようにして、襖を閉め、しっかり鍵をかけた。
寝る前に、玄関を何度も確認して、チェーンもかけた。
深夜になり、ようやく眠りについたとき――再び、壁を叩く音がした。
コツ、コツ……コツン。
梓は布団の中で息を殺した。
音は、隣の部屋からだ。
つまり、203号室。濡れた靴が置かれている部屋。
誰が住んでいるのだろう。会ったこともなければ、声を聞いたこともない。
コツン。
静かな音。だが、その夜は、なぜかその音が耳について離れなかった。
それは、壁を隔てて誰かが自分に話しかけているように思えたからだ。
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