第2話「神の囁き」

〝冬夜〟──というらしい被写体は、無言のまま椅子に座っていた。

脚を組み、顎を引いている。

光の中に沈んだ姿は、まるで彫刻のようだった。


なのに、妙に“生きて”いる。


長い睫毛。血の気のない肌。

見下しても、睨んでもいない。

けれど、目が合った瞬間、呼吸が止まりかけた。


──見透かされてる。


そんな直感が、皮膚の奥に刺さった。


こんな被写体、初めてだった。


「……じゃあ、始めます」


声をかけると、冬夜がゆっくりとこちらを見た。

その瞬間、空気が変わった。

刺さるような視線に、胸の奥がざわめく。


シャッターを切る。

光を読む。

呼吸と間合いを合わせて、表情の揺らぎを待つ。


──でも、まだ“そこ”じゃない。


確かに撮っているのに、なぜか“撮らされている”気がした。

主導権が、向こうにある。

もっと近づきたいのに、届かない。


視界が乗っ取られる。

心臓が激しく音を立てる。


ぎゅっ、と掴まれたような。


一枚撮るごとに近づく。


でも足りない。

次は。その次は、もっと。


何度も、何度もボタンを押す。

数え切れないほど。


そして。


「……すみません、あと10分で撤収の準備を……」


スタッフの声に、意識が戻る。

喉が渇いていた。呼吸が乱れていた。

肩にのしかかる疲労が、現実に引き戻す。


──くそ。時間切れか。


その時だった。


「撮ったの、見せて」


冬夜がいつの間にか、隣にいた。

驚くほど近くに。


低い声。無感情なのに、拒めない気配だけが濃い。


喋るんだ、と思いながら、液晶を差し出す。


画面を覗き込む。

まばたき、ひとつ。


「……たりない」


たった一言で、背筋がぞわりと逆立つ。


「君、もっとやれるよね。やって」


なにを、どこまで、見抜かれているのか。


「……すみません、もう時間が……」


スタッフの声が再び響く。

撮影は、もう終わり。


──けれど。


まだ、寄せられる気がした。

まだ、届いてない気がした。


そう思った瞬間、冬夜が俺の腕を掴んだ。


「じゃあ、君、俺の家に来て。今すぐ」


「は?」


何を言ってるんだ、こいつは。

頭がおかしいのか?──いや。

本気だ、この目は。


「もう一回、撮って。……今度は、最後まで」


細い身体のどこにそんな強引さがあるのか。

拒む間もなく、気づけばタクシーの後部座席に押し込まれていた。


十九歳が、三十間近のカメラマンを拉致。

……絵面としては逆にしか見えないが、実質、これは誘拐だ。


逃げようと思えば、逃げられた。

電話をすれば、戻れた。

やるべき仕事も、説明も、謝罪も──全部、投げ出した。


なのに、俺はここにいる。


理由は、まだわからない。


車内はずっと静かだった。

冬夜は窓の外を見たまま、ぴくりとも動かない。

俺の横に“座っている”だけなのに、距離の感覚がおかしい。


存在が、強すぎる。


言葉を発さないくせに、気配だけで空気を支配してくる。


なにを考えてる。

なにが目的だ。

本当に“撮る”ためだけに連れてきたのか?


不安と興奮が、喉の奥で交差する。

見たことのない感情が、じわじわと胸を侵食していく。


気づけば、口が勝手に動いていた。


「……YouTube、観た。よかったよ」


言った瞬間、しまった、と思った。


空気が凍る。

返答は、なかった。


……と同時に、鋭い視線が横から突き刺さる。


「君、本当にそう思うの?」


マゼンタの瞳が、刺さって抜けない。

無表情のままなのに、なぜか“怒っている”ように感じた。

冷たい。熱い。わからない。


「……編集も、撮り方も、間違ってた。と思う」


息を吐くように、懺悔のように、つぶやく。

自分の声なのに、どこか他人のようだった。


──睫毛が、わずかに震えた。


その一瞬だけ、冬夜の表情が変わった。


「俺も。だから、君の目で俺を撮って」


“神様”が、ほんのわずかに、笑った。

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