第20話 磨かれていく日々、交わされる言葉
王宮での生活が再び始まってひと月――クラリスは、目まぐるしい日々の中で懸命に学び続けていた。
朝は礼儀作法、午後は語学や歴史、夕刻には模擬式典や応対訓練。気を抜く暇など一瞬もない。それでも、クラリスの足取りはどこか軽やかだった。
(昨日よりも、今日の自分の方が、ほんの少し進んでいる気がする)
その感覚が、小さな支えになっていた。
* * *
「……視線を正面に、そして歩幅をもう少し小さく。そう、今のは悪くありません」
礼儀作法の講義が終わったあと、エリザ・クローデルはそっと手元の記録帳に印をつけた。
元侯爵夫人であり、数多の貴族令嬢を育ててきたエリザ・クローデルは、このひと月のクラリスの成長を目の当たりにしていた。
その日は講師陣が集う定例の会合。彼女は珍しく、自ら静かに口を開いた。
「このひと月で、彼女はずいぶん変わりました。“教えれば応える”という素直さに加え、“自ら正す”という姿勢を持っている。――これは、教える者として、最も報われる生徒の在り方です」
きっぱりと断言された言葉に、他の講師たちがわずかに目を見交わす。
「初日は、子爵令嬢らしい素直さでありながら、どこか自分を“見張っている”ような節があった。でも今は、身体が自然に動くようになっている。――覚えた所作を、心で受け止め始めている証です」
そう続けたエリザの声には、厳しさの奥にほのかに温度が宿っていた。
語学講師のエドアルド・メレシウスも、柔らかな口調で言葉をつなぐ。
「耳が良い。響きの違いをすぐに拾い、言葉の背景にある意図まで掴もうとする姿勢は、もはや模倣ではない。言葉の“意味”を理解しようとする者にしか現れない感覚です」
「うむ……たしかに、どの分野でも“気づく力”があるな」
歴史と政礼を担当する老貴族、オルセイン卿は、眼鏡の位置を直しながら静かに呟く。
「ただ――少々、自分を過小評価しているように見える。『見る』ことに長けているにも関わらず、それを“偶然の気づき”のように扱っている節がある。もっと、自身の『目』に自信を持たねばな」
「それもまた、あの子らしさなのかもしれませんね」
エリザはふっと微笑を浮かべた。氷のような厳格さで知られる彼女が、柔らかに笑んだことに、場の空気がわずかに和らぐ。
「でも、私は知っているのです。どんなに繕った礼儀作法よりも、“自分を律する姿勢”こそが、品格の根となることを」
彼女のその言葉に、エドアルドも小さく頷いた。
「彼女は王妃になるために“教え込まれている”のではなく、“自ら考えている”。――それは、指導する側にも学びを与えてくれる」
講師たちの言葉は、ただの評価にとどまらなかった。そこには、日々真摯に向き合う生徒への信頼と、育てていきたいという願いが込められていた。
「いずれにせよ、王妃としてふさわしい“気骨”と“柔らかさ”を、あの者は備えていると思います」
エリザがそう締めくくると、場にいた全員が無言でうなずいた。
そして、ひとつの提案がなされた。
――同じく王宮で、第二王子妃候補として教育を受けているルナ・セレストとの交流を、一定の範囲で認めるべきではないか、と。
形式上は異なる立場であっても、互いに切磋琢磨し合える相手の存在は、何よりの刺激となるはず。王族に寄り添う者として求められるのは、孤高ではなく“共に歩む力”なのだから。
それは、クラリスにとって新たな学びの扉が開かれた瞬間でもあった。
* * *
夕刻、クラリスは案内された静かな食堂の一角で、少しだけ緊張しながら席についた。窓の外には淡い夕焼けが残り、光がカーテン越しに穏やかに差し込んでいる。
そこへ、軽やかな足音とともにルナが現れた。淡い藤色のドレスに身を包んだ彼女は、以前よりもどこか引き締まった面持ちをしている。
「……久しぶりにこうして顔を合わせられるの、なんだかうれしいわ」
そう言って微笑んだルナの声は、少しだけ柔らかく、少しだけ照れくさそうだった。
「私も。お互い、少し顔つきが変わったかもしれないね」
クラリスも穏やかに笑って応じ、ふたりは自然と向かい合って椅子に腰かけた。
皿の間に置かれた小さな花瓶には、初夏の草花が活けられている。そのさりげない彩りが、ふたりの会話を優しく包んでいた。
「クラリスと呼んでも良いかしら?」
少しの沈黙を破って、ルナが問いかける。
「もちろん。……私も、ルナと呼ばせていただくわ」
「ええ、そうして。せめてこの時間だけは、気負わず話しましょう」
そう言って微笑み合ったふたりの間に、ようやく“肩書き”を越えたあたたかな空気が生まれた。
「クラリスとまたこうして話せて、本当に嬉しい。実はね、あの選抜戦の最中、私が最後まで見失わなかったのは、あなたの姿勢だったの」
「……ありがとう。そんなふうに言ってもらえるなんて。でも、ルナの言葉に、何度も救われたのは私の方だったわ」
その言葉に、ルナがふっと息をついて笑う。
「実のところ、最初の頃は“あの人は何を考えているの?”って少し怖くて。でも、よく観察していたら……静かだけれど、あなたの目はいつもまっすぐだった」
クラリスはその言葉を噛みしめるように受け取り、少しだけ目を伏せた。
「私は、ただ“見て”いただけ。でも、ルナは言葉を通して人の心を“読む”ことができる。あの晩餐会でも、皆の空気を和らげていた。あれは、誰にでもできることじゃない」
「ふふ……ありがとう。そう言ってもらえると、自分の力を信じたくなる」
ルナの瞳が、あたたかな自信を宿して輝いた。
「クラリス、王妃用の婉曲表現の授業はあった? “柔らかく断る”って、本当に難しいわよね」
ルナがスプーンを置きながら笑いかける。穏やかな夕食の場、ふたりは学びの苦労を自然に言葉にできるようになっていた。
「ええ……“賜る静寂”が“帰ってほしい”の意味だなんて、最初は混乱したわ」
「私、うっかり“過分な沈黙を賜る”なんて使ってしまって、先生に『それは皮肉です』と冷たく言われたのよ」
「それは……想像できるかも……」
思わずふたりは顔を見合わせて笑った。
たとえ肩書きが違っても、同じように悩み、つまずき、学び続けている。それを確かめ合える相手がいることは、ふたりにとって大きな救いになっていた。
笑いの余韻が静かに溶けたあと、ルナがナイフを揃えながらぽつりとつぶやく。
「……私たち、違う力を持っている。でも、それでいいのよね。補い合えるって、思えばとても心強いことだと思うの」
クラリスはその言葉を反芻するように、ゆっくりと頷いた。
「ええ、そうね。誰かの“特別”ではなくて、お互いが“意味のある存在”でいられたら……私は、それが一番素敵だと思う」
ふたりの視線が自然に重なる。そこには、競い合う者同士ではなく、未来を支え合おうとする者たちの静かな決意があった。
やがて食後のハーブティーが運ばれ、話題が少しずつ和らいでいくなか、クラリスはふと、懐から一通の封筒を取り出した。
淡い香りの残る手紙。差出人はレオニスだった。
《最近は、書状でしか会話ができず寂しく思っています》
と添えられた一節を読み返すたびに、胸の奥がきゅうと締めつけられる。
ユリシスから届いた手紙には、ルナの近況に触れた一文と、変わらぬユーモア、そして兄への敬意がにじんでいた。
けれど、彼らの顔を見たのはもう、どれほど前になるのだろう。
(……お会いしたい。直接言葉を交わしたい。でも――)
会いたいと願う気持ちがあるのに、それを口にすることが“甘え”に思えてしまう自分がいる。
けれど今夜のルナとの会話が、クラリスに小さな勇気を与えてくれていた。
「――ルナ。私、もう少し頑張るわ。もっと胸を張って会いにいけるように」
小さな決意の言葉に、ルナは微笑んで頷いた。
「きっと、レオニス様もユリシス様も同じように思ってくださっているわ。焦らなくていい。あなたはあなたの、私は私の、それぞれの歩幅で」
ティーカップをそっと置いて、ふたりは窓の外を見やった。藍色の空に、ひときわ明るい星がひとつ、静かに瞬いていた。
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