第21話 逢えない時間が育てる想いの表し方


 王宮の午後、白亜の回廊に西日が差し込み、影が静かに伸びていた。


 第二王子ユリシスが訪ねてきたのは、王太子レオニスの執務室だった。普段は要件があるとき以外は互いに距離を保つ兄弟だが、この日のユリシスの足取りには、どこか焦燥がにじんでいた。


 重厚な扉が静かに閉まる音と共に、部屋には沈黙が落ちた。窓辺に置かれた小さな卓上時計の音が、妙に大きく感じられる。


「……クラリス嬢の近況は?」


 書棚の前に立ったまま、ユリシスがぽつりと問う。普段のような朗らかな調子ではなく、迷いを含んだ声だった。


 レオニスは机の上の書簡に目を落としたまま、短く答えた。


「順調に学んでいるようだ。エリザからの報告では、“見る力”を土台に、実行力と柔軟性も備わってきていると」


「……なら、安心なんだろうな。いや、安心なのに、なのに……」


 ユリシスは思わず額を押さえ、低く息をついた。


「……会いたいんだ、兄上。ルナに。ほんの少しでいい。ただ、あの素直な笑顔を、また間近で見たいんだ」


 レオニスはペンを置き、ようやく視線を上げる。そして、何も言わず、ただ弟の表情を見つめた。


 その静かなまなざしに、ユリシスははっとして顔を上げる。


「……兄上も、まさか?」


 その問いに、レオニスはわずかに目を細め、答えた。


「俺も、会いたい。クラリスに」


 言葉は静かで、どこまでも真っ直ぐだった。決して感情を露わにはしない王太子の胸の内が、そこには確かにあった。


 レオニスはゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外へ視線を投じる。初夏の光が、庭園の芝を照らしていた。


「……選抜戦の最中、何度も思った。あの試練は本当に必要だったのかと。だが、彼女の姿を見ているうちに、自分の方が試されているのかもしれないと気づいた」


 その声は、まるで自問のようだった。


「“見抜く力”を持つ者は、ときに誰よりも孤独になる。だから、俺はただ彼女のそばにいたいと思ったんだ。……寄り添いたい、なんて、そんなこと、今まで思ったこともなかったのに」


 ユリシスはゆっくりと頷いた。


「俺はルナと話すと、自分がまだ見えていなかった世界を教えてもらえる気がするんだ。……側にいたいと思った。あのまなざしを、守りたいって」


 二人の間にあった沈黙が、少しだけ形を変えた。もはやそれは遠慮や距離ではなく、互いの想いを認め合うものとしての、静けさだった。


 しばらくして、ユリシスがそっと言った。


「……手紙じゃ、足りないんだな。言葉が届いても、声が、笑顔がないと、満たされない」


「わかるよ。それでも今は、会うよりも“信じる”ことが大事なときかもしれない。けれど――」


 レオニスは少しだけ微笑んだ。


「“その時”が来たら、俺は、まっすぐ伝えるつもりだ。彼女の目を見て、自分の言葉で」


 ユリシスもまた、静かに笑った。


「……俺も、負けていられないな」


 兄弟は互いに微笑みを交わし、次の一歩に向けて、それぞれの想いを胸に秘めたまま、再び書類へと向き合っていった。


* * *


 兄との会話を終えたあと、ユリシスはまっすぐ自室へと戻った。扉を閉じると、少しの間、胸元に手を当てて深呼吸をする。


(言葉だけじゃ、伝えきれない気がする。僕の想いは……たぶん、もっと形にならないものだから)


 机の引き出しから取り出したのは、使い慣れた水彩絵具と、小さな画用紙の束。淡い色合いの紙は、彼が以前から趣味として描いていた風景画や植物画のために常備していたものだ。


 けれど今日は、そのどれよりも慎重に、ゆっくりと筆を取る。


 一枚目の紙には、図書室の窓辺に差す柔らかな光。その光の中で静かに本を読む、ルナの横顔を思い浮かべながら描いた。


 細い筆で髪の曲線をなぞり、まぶたの線にそっと息を込めるように。


 裏には、こう添えた。


《あの光の中にいた君を、今でもはっきり思い出せる。

声も、表情も。全部――今も、ここにある》


 二枚目の紙には、晩餐会の夜。緊張していた自分に微笑みかけ、グラスを差し出してくれたときのルナの姿を描いた。


 その笑顔は、今も彼の中で何度も再生される。


《緊張していた僕を、救ってくれたあの笑顔。

何も言えなかったけれど、本当は心から感謝していた》


 三枚目には、なにも描かなかった。白紙のまま、余白だけがそこにある。


 けれど裏には、たった一言だけ、確かな決意を綴った。


《これから、君と描いていきたい未来のために》


 ユリシスは、筆を置いたあと、紙の乾き具合を確かめながら、息を吐いた。


 完成した三枚のカードを、一つの木箱にそっと収める。それは、幼い頃に祖母から贈られた文箱で、今も彼が大切に使っているものだった。


 表には、飾り気のない蔦の模様がうっすらと刻まれている。何度も手に触れ、磨かれてきた蓋には、使い込まれた者だけが持つ、穏やかな艶があった。


(ルナに、この想いが届きますように)


 祈るような気持ちで蓋を閉じると、ユリシスは信頼する近衛を呼んだ。


「……この箱を、ルナ・セレスト嬢のもとへ届けてほしい。中身は誰にも見せず、慎重に。――たとえ彼女が不在でも、必ず本人の手に渡るように」


 王子という立場の言葉ではなかった。ただ、一人の青年としての真摯な願い。その声音に、近衛は深く頭を下げた。


 それは、ユリシスが選んだ、自分らしい“告白”のかたち。


 言葉と絵を重ねたその箱は、彼のまなざしのすべてを乗せて、静かにルナのもとへと向かっていった。


* * *


 その夜、執務を終えたレオニスは、久しぶりに自室の執筆机に向かっていた。


 クラリス・グレイ――その名を胸の内で呼ぶたび、書き出した言葉はにじみ、筆先がたびたび止まった。彼女の面差し、声、あの静かな瞳の奥に灯る芯の強さ。思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。


(どれだけ言葉を尽くしても、伝えきれるのだろうか)


 このひと月、彼は公務に追われる傍らで、クラリスが日々の学びに懸命に向かっている姿を遠くから見守っていた。報告は届く。成長の兆しも知っている。それでも、彼女の“声”を聞いてはいない。“まなざし”を交わしていない。


 ――会いたい。どうしようもなく、ただそのひとことに尽きる。


 けれど王太子という立場は、軽々に彼女を呼び寄せることを許さない。ならばせめて、想いを「贈る」というかたちで届けよう――そう思い立った彼は、ふと窓の外を見やった。


 月明かりが優しく庭を照らしている。


(あの花が……まだ咲いているだろうか)


 上衣を羽織ると、レオニスはひとり静かに夜の庭へと降りた。


 王宮の一角、古い噴水のそば。草木の影にひっそりと咲いていたのは、淡く紫がかった小花――リナリアだった。


 気品ある佇まいで風に揺れるその姿は、控えめでありながら、人の心を射抜くような静かな強さを宿している。クラリスの姿と重なるように、彼には思えた。


(リナリア……“あなたに会いたい”)


 昔、王妃が何気なく教えてくれた花言葉。その記憶が、胸の奥で今になって音を立てた。


 レオニスは、丁寧に、そしてどこか緊張しながら、その花を数輪摘み取った。陶工に頼んで用意させた小さな白磁の鉢に、侍女の手を借りて仕立てさせる。


 その間にも、彼は手紙を書き進めていた。筆致は穏やかでありながら、どこか震えるように情熱を帯びている。


「貴女が王宮に戻ってからというもの、

私は一日の終わりに、貴女の姿を思い浮かべてばかりです。

強さも、戸惑いも、優しさも、目を閉じればすぐそこにある。


けれど、それが現実でないことに、私はまだ慣れきれずにいます。


リナリアの咲く庭を、共に歩ける日を、ただ願っております。」


 そして、手紙の末尾に、そっと一文を添えた。


「この花は、夜の庭に咲いていました。

ほんのひとときでも、貴女の目に留まればと願います。」


 封を閉じ、花と共に届ける手筈を整えながら、レオニスはゆっくりと息を吐いた。


 それは、ただの贈り物ではなかった。


 言葉では伝えきれぬ恋情を、香りと色に託した、彼にとっての精一杯の“告白”だった。

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