第19話 束の間のひと時と教育の始まり
王宮からの馬車がグレイ子爵家の屋敷に到着したとき、クラリスは思わず息をのんだ。
見慣れた門扉の向こうに、小さな変化があったのだ。庭木が手入れされ、玄関先には新しい花鉢が並んでいる。そして何より、扉が開くよりも早く、母のマリアンヌが飛び出してきた。
「クラリス――!」
駆け寄ってくる母に抱きしめられ、クラリスは思わず目を伏せた。
「……ただいま戻りました。少しの間不在でご迷惑をお掛けしました」
「無事で帰ってきてくれて、それが何よりです」
邸に入ると応接間で父であるレイモンド・グレイ子爵が待っていて、静かに頷く。
「よくやった。……王宮から書状も届いている。“選ばれた”ことに、我が家としても誇りを持っている」
その言葉には感慨と戸惑いが混じっていた。
借金を作らなければ領地を守れない状況であり、政争にも関わらず穏やかな暮らしを守ってきた子爵家にとって、「王太子妃候補」という響きはあまりに遠い。
「……本当に、この道でよかったのか、何度も迷いました。でも、今は少しだけ“見えた”気がするのです。この国の中で、自分にできることが」
クラリスの真剣な表情に、父は静かに目を細めた。
「ならば、私たちはそれを信じよう。――おまえは、よく見てきたのだろうから」
* * *
その夜、用意された夕食は、王宮の豪奢さには及ばない、けれどクラリスにとって、何よりも心安らぐ食卓だった。
テーブルの上には、ほんのり甘い香りのするカボチャのポタージュ、香ばしく焼き上げられた鶏肉のハーブグリル、そして、彼女の大好物であるトマトとチーズのグラタンが湯気を立てていた。
「クラリス姉さまの好きなものがいっぱいね。姉さまと食べるの久しぶりだわ」
はしゃぎながら声をかけてきたのは、妹のアデール。まだ十歳の少女は、王宮のことよりも、姉と一緒に食事ができる喜びでいっぱいのようだった。
「ほら、クラリス、これも好きだっただろ?」
兄のロイデールも、笑いながら取り分けてくれる。いつもは寡黙な兄が、どこか誇らしげにしているのが、少しだけくすぐったかった。
「……ありがとう。懐かしい味だわ。やっぱり、家のごはんっていいものね」
そう言って微笑んだクラリスに、母マリアンヌは少し目を潤ませながら、うなずく。
「あなたが無事に帰ってきてくれて、こうして皆で囲めるだけで、私はもう十分よ」
食卓には、笑い声が自然と満ちていった。
王宮での日々、選抜戦、数々の試練。それらは決して軽くはなかったけれど――このひとときが、クラリスにとって確かに“帰る場所”であることを思い出させてくれた。
けれど、彼女の心はすでに、“ここにとどまる”だけでは満たされなくなっていた。
(だからこそ、私は戻る。王宮へ。そして、歩き出す)
そうして迎えられた実家での一晩。懐かしい部屋、懐かしい香り、けれどクラリスの胸の内には、もはや戻るだけではない“次の一歩”が確かに芽吹いていた。
翌朝には、王太子妃教育のため再び王都へ向かう馬車が来ることになっている。
(私は、もう“見ていただけ”の人間ではいられない)
窓の外に見える星空を見つめながら、クラリスは静かにそう決意するのだった。
* * *
翌朝、クラリスは夜明けとともに身支度を整えた。
王都へと向かう馬車の到着時刻が近づく頃、母が用意してくれた朝食を口に運びながら、クラリスは静かに気を引き締めていた。
(今日から、私は王太子妃候補としての本格的な教育を受けることになる)
送り出す家族の前では笑顔を浮かべていたが、内心にはやはり緊張があった。
到着した王宮では、すでに教育係となる女性が待っていた。名をエリザ・クローデル。元侯爵夫人で、現在は王妃直属の女官として仕えている、厳格な教育者だった。
「グレイ子爵令嬢、王太子妃候補として、今日から貴女には覚悟をもって臨んでいただきます。よろしいですね?」
「……はい。よろしくお願いいたします」
初日は基本的なマナーと礼儀作法の確認から始まった。食事の所作、歩き方、座る姿勢、言葉遣い。どれもクラリスがこれまで学んできた内容ではあったが――
「手の角度が甘い。貴族たる者は、指先で言葉を語るように立ち振る舞うのです」
「もう一度歩き直して。背筋はもっと真っすぐに」
エリザの指摘は的確で容赦がなかった。
(……これが、“本物の王宮”の水準……)
クラリスは身に沁みて思い知らされた。子爵家での教育では到底届かなかった、王妃となる者に求められる基準。
午後からは礼装での立ち居振る舞いや、歴史的慣例に基づく式典での動きなども加わった。
「立ち止まる際は、両足を揃えるのではなく、わずかに左足を引くのです。それが、王妃の佇まいというものです」
何度も繰り返し練習する中で、クラリスの頬にはうっすらと汗がにじんだ。
けれど、指導が終わったあと、エリザは一言だけこう告げた。
「一日でここまで修正がきくのは、並の者ではありません。――目がいい。ご自分の姿を、よく観察できている証拠です」
それは、クラリスにとって何よりの励みとなった。
(私はまだ未熟。でも、“見る力”は、今までも、これからも私を支えてくれる)
休憩中、書架の並ぶ部屋で深呼吸をひとつ置いたクラリスは、静かに心に誓った。
(恥じることなく、恐れずに。私は、見て、学び、王宮で歩んでいく)
そうして彼女の“次の試練”の日々が始まっていった。
夕刻、ひと息つく間もなく、クラリスは別の部屋へと案内された。そこには、背の高い中年の紳士が静かに待っていた。
「初めまして、グレイ嬢。私はエドアルド・メレシウス。語学の講師を務めます。主に王族の会話に用いられる正式文語や、周辺諸国の儀礼語などを担当します」
穏やかな口調で告げられたその内容に、クラリスは思わず姿勢を正す。
「よろしくお願いいたします。精一杯、努めさせていただきます」
「肩肘を張らずとも大丈夫ですよ。言葉は、音楽と同じです。まずは耳を澄ませること。意味は後からついてきます」
そう微笑んだエドアルドは、王宮の古い文書を机に広げた。
「本日は王族が外交文書の中で用いる“礼辞”の基本を学びましょう。これは感情を穏やかに包み隠すための言葉遣いです。“お引き取り願いたい”も、“光栄なるお出ましの後の静寂を賜りたく”に変わります」
思わず、クラリスは目を見開いた。
(……こんな言い回し、使ったことも聞いたこともない……)
けれど、エドアルドは決して急かさなかった。言葉の背景、文化的意味、過去の事例まで交えながら、丁寧に解説してくれる。
「これは言葉の技術であると同時に、“心の礼装”でもあるのです。着飾ることが嘘になるのではなく、相手に敬意を示す衣なのですよ」
その言葉に、クラリスは小さくうなずいた。
目の前の文章は難解で、頭が熱を帯びるようだったが、それでも――
(言葉にも、まなざしがある。ならば私は、それを見つけていけばいい)
一日の終わりにしては厳しくも濃密な講義だったが、クラリスはその難しささえ楽しむように、再び筆を走らせていった。
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