第15話 緊張の意見発表が始まる。


 謁見の間の高い天井に届くステンドグラスが、朝の陽射しを受けて、静かに色彩を変えていた。

 紅、青、琥珀、翡翠――壁に投げかけられた光は揺らめく水面のように淡く、けれどどこか荘厳な気配を宿している。


 クラリスは、控室の片隅で静かに息を整えていた。


 膝の上に広げたのは、何度も書き直した小さなメモ用紙。

 自室の机で、昨夜遅くまで悩みながら記した言葉たち。

 “誰にどう思われるか”より、“何を見てきたか”を伝えることを自分に言い聞かせながら、ようやく絞り出した数行だった。


 その最後の文に、クラリスはそっとペン先で印をつける。


(……これで、いい)


 小さく頷いて立ち上がると、椅子の脚がわずかにきしむ音が、空気を切り裂いた。


 今日は、八人の候補者それぞれが、レオニス王太子、宰相殿、そして昨夜の夕食で紹介された第二王子ユリシスの三人の前に立ち、自らの言葉で「見たもの」「感じたこと」「この国とどう関わりたいか」を語る場が設けられている。


 壇上ではなく、玉座の間でもない。

 けれど、そこは間違いなく、この選抜戦のひとつの“終点”であり、“岐路”だった。


 (形式ばった報告ではなく、率直な言葉を――)


 レオニスの声が、記憶の奥からそっと呼び起こされる。


 “率直に語っていい”――そう言われた。

 けれど、その“率直さ”がどこまで許されるものなのか、本当に届くものなのか。

 あるいはそれが、試される材料に変わるのか。


 答えのない問いが、何度も心のなかを巡る。


 それでも――


(私は“見る者”として、この三日間を過ごしてきた)


 文書管理室や図書館で出会った書類や書面、本の数々から得た言葉の重み。

 侍女たちの表には現れない準備や抜かりのない気配りが支えているもの。

 王妃の強い信念と、それによって支えられ護られている人たちの営み。

 薬草園で感じた癒しの循環。

 保育施設で気づいた視点の転換。

 そして、そこに宿る“この国の深さ”。


 誰かを惹きつけるような話ではないかもしれない。

 けれど、確かに自分が「受け取ったもの」はここにある。


 そう思った瞬間、胸の奥にじんわりと力が宿った気がした。


* * *


 順番は、朝食後、控えめに貼り出された紙に記されていた。


 トップバッターは――ルナ・セレスト。そして、クラリスの名は、一番最後に記されていた。


(最後……)


 その順番に、驚きこそなかったが、胸の奥が静かに波打った。

 終わりを締めくくるというのは、ただの順番ではない。

 見届ける者としての役目を、改めて突きつけられたような気がした。


 トップバッターであるルナの名前を目にしたとき、誰もがほんの一瞬、息を呑んだ。

 自信と知性を併せ持つ彼女ならではの位置とも言えたし、同時に、先陣を切ることの重みも誰よりわかっているはずだった。


 控室には、上品な椅子が壁沿いに並べられ、そこに候補者たちが等間隔に腰掛けていた。


 ルナは静かに立ち上がると、余計な言葉を一切残さず、ふわりとスカートの裾を揺らして扉へと向かっていった。


 その背には、迷いも怯えもなかった。

 ただまっすぐに、揺るぎない意志の気配が宿っていた。


(決意……あるいは、覚悟)


 クラリスは思わず目で追いながら、胸の奥でそう呟いた。


 扉が静かに閉じられると、室内にふっと沈黙が落ちる。

 その沈黙は、重くもなく、ぴんと張りつめた緊張感の中に、どこか敬意すら含まれていた。


 紙に目を落として、文章の一部を書き直す者。

 目を閉じて、心の中の言葉を反芻している者。

 手を組んだまま、じっと何かを祈るように座っている者。


 誰もがもう、“演じる”ことをしていなかった。


 ここにはもはや、駆け引きも、虚飾もない。


 あるのは、ただ「どう語るか」、そして「何を残すか」――

 その一瞬一瞬に向き合う、真摯な沈黙だった。


* * *


 一人目のルナが戻ってきたのは、きっかり三十分後。

 何も語らずに控室の席に戻り、膝の上で手を組んだまま目を閉じている。


 続いて二人目、三人目と、順に名前が呼ばれていく。

 時間通りに進む報告の場。

 けれどそのたびに、控室にいる面々の緊張は少しずつ増していった。


(私の順番は、最後……)


 クラリスは胸の奥にじんわりと広がる熱を感じながら、手元の紙片を見つめた。

 文章にはなっていない。

 ただ、単語の羅列――けれどそのすべてが、自分が“何を見たのか”の記憶の断片だった。


(このままでいい)


 形にはまった言葉ではなく、自分の言葉で。

 王子が、それを求めていると信じたいから。


* * *


 そして、いよいよ名前が呼ばれる。


「クラリス・グレイ様、お進みください」


 立ち上がるとき、脚に少し力が入らなかった。

 けれど――それは恐れではなく、何かを託された者の覚悟のようなものだった。


 扉の向こう、三人の“聞き手”が待つ謁見の間へと、一歩ずつ、足を進めていく。


(語るのは、私の“答え”ではない。“見る者”として、見てきた真実)


 静けさの中に、時計の針が音を刻む。

 その場にあるのは、ただ真摯な眼差しと、ひとつの問い。


(――どうこの国に関わりたいか)


 クラリスは、深く息を吸って、扉の中に入り、勧めに沿って椅子に座り、語り始めた。


* * *


「クラリス・グレイです。この三日間、王宮のさまざまな場所を見学する機会をいただき、心より感謝申し上げます。


 私は、文書管理室と王宮図書館、侍女の仕事、王子殿下の執務室、厨房などの裏方の設備、王妃陛下との謁見、薬草園、そして保育施設を見学させていただきました。


 どの場所でも、それぞれの想いと誇りに触れました。けれど、その中でも、私の心に深く残ったのは二つ。

 ひとつは“国を支えるということは、名のある者にのみ目を向けることではない”という気づき、

 そしてもうひとつは“点在する事象が何と結びついて線になり、そして面を構成していくのかを『見る』必要がある”ということです」


 ほぅ、という顔をしてクラリスのことを見つめるレオニスと宰相。

 そして面白いものを見つけたという笑顔を見せるユリシス。


 クラリスはさらに言葉を続けた。


「文書管理室で目にしたのは、名もなき人々の嘆願書でした。

 文字の端々には、暮らしに潜む不安、失われたものへの悲しみ、そして静かな希望がにじんでいて――私は、ただの紙束ではない“生の声”を受け取ったのだと気づきました。

 政とは、遠くで決まるものだと思っていた。けれどあのとき、私は知ったのです。たとえ声が届くまでに時間がかかっても、人の願いは国のかたちを動かす力になるのだと。


 そして、王宮図書館では、書架に眠る古い記録や、かつての王たちが交わした手紙、時代ごとに紡がれてきた知の断片に触れました。

 その多くは、いまの政には直接関わらない“過去”のものでしたが――私は、そこに込められた“問い”や“選択”の積み重ねが、今の王国を築いていることに気づいたのです。


 なかでも印象に残ったのは、ある宰相が残した一文でした。


《政とは、いまを導くために過去に学び、未来に備えること》


 その言葉は、まるでこの見学の意味そのものを語っているようで――私は、知識とは単なる装飾ではなく、国の芯を支える“土台”であるのだと、はじめて実感しました。


 図書館の静寂のなかで、ページをめくるたびに立ち上がってくる、名もなき書き手たちの想い。

 それは文書管理室で触れた“声”とはまた違うかたちで、確かに未来へと届こうとしている“意思”だったのだと思います。


 侍女たちは、日々の中で決して誰にも気づかれないような所作を、丁寧に積み重ねていました。

 洗いたての布のしわを伸ばす手つき、立ち去った部屋の空気を整える間の取り方――誰かの目に触れなくても、その心遣いは確かに“空間の心地よさ”として残っていたのです。

 表に出ない労苦を、誇りとして抱いている。その姿に私は、自分の中の“見られることだけが価値ではない”という視点を育てられたように思います」


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