第14話 三日間の見学を終えて。


 午後、クラリスが案内されたのは、王宮の南側に位置する静かな一角――生活棟に隣接した小さな建物だった。


 そこは、格式高い王宮の中にあって、まるで別の世界のように柔らかな空気が流れていた。


 白壁に木枠の扉、低く抑えられた屋根。豪奢な装飾などひとつもないが、門扉の前に植えられた小さな花々と、どこからか聞こえる子どもたちの笑い声が、この場所の豊かさを物語っているようだった。


 中へと通されたクラリスは、まずその温かな空間に目を奪われた。


 陽だまりの中庭では、ふかふかの毛布の上に寝転んで絵本を眺めている子どもがいれば、小さな手で粘土をこねながら、何かを一生懸命かたちにしようとしている子もいる。

 保育室には、色とりどりの絵本や安全に作られた木製の玩具が整然と並び、壁には子どもたちの描いた絵が飾られていた。


「クラリス様、ようこそいらっしゃいました」


 そう声をかけてくれたのは、穏やかな笑みをたたえた保育士長の女性だった。年のころは五十を過ぎたあたりだろうか、柔らかな物腰と、どこか安心を与える声を持っている。


「こちらでは、主に洗濯係や厨房、侍女として働く職員の子どもたちをお預かりしております。王宮の“日常”を支える人々にとって、この場は働くために、そして暮らすために、欠かせぬ場所なのです」


 その言葉に、クラリスはゆっくりと頷いた。


(王宮という巨大な舞台を動かすために、こうして家族の生活までも支え合う仕組みがあるのね……)


 少し前までなら、まったく想像すらしたことのない光景だった。


* * *


 やがて昼食の時間になり、保育室に長い木の机が並べられた。

 子どもたちが順番に手を洗い、先生に手伝ってもらいながら席に着いていく様子は、どこか微笑ましく、そしてどこまでも“普通の日常”だった。


 けれど――


 運ばれてきた給食を見て、クラリスはふと立ち止まった。


 見覚えのあるパン。昨日、厨房で“廃棄予定”として積まれていた、少し切り口の乾いたもの。

 それに、皮が少し傷んでいたはずの果物は、きれいに皮をむかれて甘煮に変わっている。

 スープには、形が崩れていた根菜がやさしい味に煮込まれていた。


「……これらは、昨日の……?」


 思わず漏れた言葉に、保育士長は微笑みながら頷いた。


「ええ。王妃様のご方針で、安全な範囲の食材は、こうしてお子さま方の昼食や、職員の賄いとして有効に活用しております。王宮では“贅”を演出する場面は多くとも、“浪費”は決して望まれておりませんの」


 その言葉に、クラリスはそっと手を胸元に添えた。


(同じ食材が、“不要”とされ、ここでは“糧”になる)


 昨日、厨房の裏手で目にした“廃棄用”の木箱。

 そこには、香ばしい焼きたてのパンや、ほんの少しだけ傷んだ果実、乾きかけたチーズが無造作に詰め込まれていた。

 クラリスは、その光景に静かな衝撃を受けた。

 まだ食べられるのに、まだ使えるのに――そう思ったとき、自分の中に湧きあがったのは、怒りや憤りというより、漠然とした“痛み”だった。


 その“痛み”の正体を、クラリスは今日、ようやく言葉にできそうな気がしていた。


 目の前には、昨日“不要”と見なされたはずの食材が、温かな昼食へと姿を変えて、子どもたちの前に並んでいる。

 パンは軽く焼き直され、果物は甘く煮て添えられ、少し不揃いな野菜はスープの中で彩りを添えていた。


(廃棄されると信じて疑わなかったものが、ここでは誰かの成長を支えている……)


 目の前の子どもたちは、その一膳を前にして、目を輝かせながらスプーンを運んでいる。


 ――昨日の自分は、まだ半分しか見ていなかったのだ。


 “廃棄”という言葉に引きずられ、その先にある活用の工夫や、誰かの手によって救い出される可能性には、まったく思いが至っていなかった。


 目に映る“現実”は、時にほんの一部分でしかない。


 痛みや不満に心を引かれたままでは、そこに込められた別の努力や、丁寧に繋がれた希望を見落としてしまう――。


(見たことだけを“真実”と思い込むのは、きっと危うい)


 ほんの少しの手間と視点の違いで、物の価値は変わる。

 そして、その“視点”を持つ者こそが、世界のあり方を変えていけるのだと、今ならわかる気がした。


 昨日は、苦い思いに胸を詰まらせた。

 けれど今日、その同じ素材が、誰かの笑顔を生み出しているのを目の当たりにして――クラリスは、自らの視野の狭さに静かに恥じ入った。


 そして、そこから生まれる問いを、大切に抱きしめた。


(“見る者”であるならば――私は、もっと丁寧に、もっと深く、“その先”まで目を向けなくてはならない)


 クラリスは静かに視線を落とし、木のスプーンを握る小さな手と、満ち足りた表情を見つめながら、心の奥に何かが沁み込んでいくのを感じていた。


* * *


 夕刻、クラリスが案内されたのは、王宮の西翼にある小広間だった。

 これまでの晩餐会場と異なり、天井は低く、温かみのある木製の梁が空間を包んでいる。窓には厚手のカーテンが引かれ、ろうそくとランプの灯りだけが、室内を柔らかく照らしていた。


 円卓には、これまでと同じく八名の候補者たちが着席していた。けれど、その顔ぶれには、どこか疲労と緊張、そして一抹の覚悟がにじんでいた。


 この三日間――それぞれが選んだ場所で、何かを見、何かを感じ取ってきた。

 それが、誰の目にも明らかな静けさを作っていた。


 しばしの談笑と、控えめな料理が進んだころ、扉が静かに開いた。


「――殿下、ご到着です」


 従者の声とともに、レオニス王子が現れた。

 今夜の彼は、軽装の軍装に身を包み、肩には黒と金の短いマントをまとっている。その姿に、場の空気が一気に引き締まった。


 王子は円卓を一巡するように視線を巡らせ、やがて落ち着いた声で語り始めた。


「三日間の生活体験、各自の見学や交流、そして王宮の内外に触れる中で――多くを見、多くを感じてくれたことと思う」


 その声は、決して強くはない。けれど、深く澄んだ響きを持っていた。


「明日、皆さんにはひとつの場を設けます。――“見たこと”“考えたこと”“自分がこの国の未来にどう関わりたいと思ったか”、それを語っていただきます」


 一瞬、空気が凍るような沈黙が流れた。


「形式ばった報告ではなくて構わない。率直な言葉を、私と宰相、そして――昨日、留学先から戻った弟・第二王子ユリシスに届けてほしい。……それが、皆さんにとって最後の“選ぶ機会”になるかもしれません」


「形式ばった報告ではなくて構わない。率直な言葉を、私と宰相、そして――昨日、留学先から戻った弟・第二王子ユリシスに届けてほしい。……それが、皆さんにとって最後の“選ぶ機会”になるかもしれません」


 そう言ってレオニスは隣に立つ青年へと視線を向けた。


「ユリシスはこの数年間、東方のリヴェルテ王国にて政治と文化を学んでいた。柔軟で新しい視点を持つ彼にも、皆さんの声を聞いてもらいたい。今日から、私と共にこの選抜の最終段階を見届けてもらおうと思う」


 視線が一斉にユリシスへと向けられる中、第二王子は穏やかに一礼した。


「突然の参加になり驚かせてすみません。皆さんの言葉を、真摯に受け止めるつもりです。どうか、飾らずに語ってください」


 その声には、兄よりもやや柔らかく、けれど芯のある響きがあった。

 長期の留学を経て、ちょうど昨日王都へ戻ったという彼は、レオニス王子とは異なる穏やかな空気を纏っていた。年若くも端正な顔立ちと、深い碧眼が印象的で、物静かながらもどこか聡明な雰囲気がある。


 レオニスが軽く頷き、全員を見渡して続けた。


「明日は、午前から一人ずつ三十分。順番はこちらからお伝えします。……これは“選抜”の一部であり、同時に皆さん自身の“問い”に対する答えを見出す場でもあると信じています」


 食卓には静かな緊張が流れた。

 だがその空気の中に、誰もが感じ取っていた。

 この三日間を経て、何かが確かに変わりつつあることを。


(宰相とユリシス様は初めましてになるから緊張せず話せるかしら。私も……明日、何を語るのか、決めなければ)


 クラリスはスープに浮かぶ香草を見つめながら、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。

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