第13話 王宮の奥の静かな空間


 朝の光が、王宮の中庭にやわらかく差し込む。

 それにしても王宮の寝具は肌触りが良く、眠りの質が上がっている。いろいろ考え事をすると眠りにつきづらい日もあったクラリスだが、王宮では落ちるように眠りにつき、爽やかな目覚めを迎える。今朝もまたすごぶる体調も肌も健康そのものだ。


 さて、この日、クラリスは特別な見学の機会を得ていた。


 それは前日に謁見したオリヴィア王妃の提案によるもので、王妃の管轄下にある王宮内の“とある二つの施設”への招待だった。


 午前は、王宮薬草園――王族の健康を守る薬草の研究と栽培が行われている、静かな庭園のような場所。

 そして午後には、王宮で働く洗濯係や侍女、厨房職人たちの子どもを預かる保育施設――日々、王宮の裏側を支える人々のために設けられた場所を訪れることになっていた。


 王宮のなかに、そんな場所があるなど、昨日までのクラリスには想像もつかなかった。


 豪奢な宮殿と格式ある儀礼、その裏にひそやかに息づく「支える人々のための空間」――


 それは、誰かに誇示するためではなく、ただ“必要だから”存在する場所。

 そしてその存在を、王妃自らが「見せたい」と思ったことに、クラリスは密かな驚きを覚えていた。


(きっと、これは――“王宮という世界”の、奥行きを知ってほしいという意図)


 飾られた舞台の奥で、静かに動く者たち。

 語られぬ努力と、日々を支える手の温もり。


 そのすべてを、この目で確かめるために――

 クラリスは、朝食のあとで従者の案内により午前の見学地である薬草園へと、そっと歩を進めることになった。


* * *


 柔らかな陽射しが大理石の床に模様を描き、朝の食堂には香ばしいパンとハーブの香りが満ちていた。


 銀のスプーンが陶器の皿をかすかに鳴らし、控えめな声の会話がいくつか、空気の中に溶けていく。


 三日目――候補者たちの表情には、昨日までにはなかった微かな疲れと、終わりの足音を意識する色が混ざっていた。


(静かだけれど、ぴんと張り詰めた空気……)


 クラリスは食堂に入るなり、ひと呼吸置いてから席に着いた。

 皆がまだ上品に振る舞っている。けれどその奥には、焦りや戸惑い、そして一抹の諦めが、形を変えて浮かび上がっている。


「昨日、王子殿下との夕食をご一緒した方がいらっしゃるって……」


 テーブルの端で、ひそやかに交わされる声が耳に届いた。


「ええ、私ですわ。まだ印象を残せていないと感じたものだから、思い切って“夕食の同席を願い出た”の。でも……実際に許されたのは軽食の時間で、たった十分だけ」


 それを語ったのは、侯爵家の令嬢。

 すらりとした背筋に、落ち着いた微笑みを浮かべながら、どこか誇らしげにその体験を語る。

 その十数分が、どれほど貴重なものか――他の令嬢たちも皆、それを知っていた。


 別のテーブルでは、そっと声を落とした会話が続く。


「宝物館、すごかったけど……護衛の視線の鋭さに、気疲れしてしまったわ」


「私は衣装部屋を。王妃陛下の若かりし頃のドレスもあって……まるで時間を遡るようでしたの」


「厨房の見学に行ったけれど……貴族の暮らしが、どれだけ多くの手で支えられているのかを痛感しました。正直、気後れしましたけど……あれが“現実”なのね」


 それぞれの声には、貴族令嬢として育った世界と、今回初めて触れた「王宮の奥の世界」への驚きや、敬意が滲んでいた。


(誰もが、何かに触れて、何かを感じている……)


 クラリスは、思わず窓辺の席へと視線を向けた。


 そこには、ルナ・セレストが静かにスープを口に運んでいる。

 飾り気のない姿勢。けれど纏う空気には、確かな自信と静けさがあった。


 数人の視線が彼女へと向かうのを感じ取ったのか、ルナがスプーンを置き、静かに話し始めた。


「昨日は、文書管理室で裁可されたものと、却下されたものの文書を拝見しました。その後は、外交儀礼の執務区画へ」


 その言葉に、食堂の空気が少し変わる。皆が、彼女の語る“内容”に耳を澄ませた。


「……文書のひとつひとつが、静かなる“戦場”でしたわ。言葉の順序、印の色、添えられた追記――それらの違いが、どれほど重い意味を持つのか。文字とは、時に刃のような存在なのですね」


 ルナの声は抑制が効いていたが、その瞳の奥には深い熱が宿っていた。


「そして、“儀礼”とは飾るための手順ではなく……“相手の価値観に寄り添うための装置”なのだと。国と国、人と人を繋ぐのは、言葉の力だけでは足りない。思いを測る術が要るのだと知りました」


 一瞬の沈黙のあと、誰もが自然と納得するように頷いていた。


(彼女もまた、“見る”ことで何かを掴もうとしている)


 気づけば、食堂のあちこちに静かなまなざしが生まれていた。

 それぞれの選択、それぞれの体験。

 そこから何を受け取り、どう自分の中で形にしていくのか――


 それが、選抜戦の“本当の問い”なのかもしれないと、クラリスはふと思った。


* * *


 朝食を終え、従者の案内でたどり着いた薬草園は、王宮の北側の一角にある石垣に囲まれた静かな場所だった。


 門をくぐると、朝露を帯びた香草の匂いがふわりと鼻をくすぐる。


 よく整えられた畝に、色とりどりの薬草が植えられ、季節に応じた効能と使い道が記された札が添えられている。


「こちらは、傷薬の基になるセラス草です。切り傷や擦過傷の初期処置に用いられます。そして、こちらの青い花は“ラルベナ”。乾燥させてお茶にすると、発熱時の体温を穏やかに下げる作用があります」


 案内役の薬師は、落ち着いた口調で一つひとつの植物の用途を丁寧に説明していく。そのたびに、クラリスの視線は自然と花や葉に引き寄せられた。


 強い香りを放つ葉、柔らかな産毛に包まれた茎、小さく儚げな花々――

 どれも決して華やかではないが、静かにその命を育んでいる。


 (これが……癒しを支える命)


 クラリスは、指先を伸ばしかけて、そっと止めた。


「こちらで育てた薬草の多くは、王宮の医療施設に送られますが、それだけではありません。侍女や使用人の体調不良、あるいは近隣の修道院に寄付されることもあるのですよ」


 そう言った薬師の瞳には、誇りと穏やかさが同居していた。


「薬というのは、“誰のため”と線を引いて配るものではありません。必要なとき、必要とする人のもとへ届けばいい。……それが王妃様のお考えでもあります」


 その一言に、クラリスの胸がふわりと温かくなる。


 (癒しや保護は、特権ではなく“めぐり”なのだ)


 王妃が“見る”先は、ただ王族や高貴な者たちに限られていない。

 陽の当たらない場所で懸命に育つ薬草のように、名もなき人々の命や暮らしに、そっと手を差し伸べようとしている。


 薬草棚の陰に咲く、小さな白い花に目をとめたとき、クラリスは思った。


 (王妃様ご自身が、“癒しをもたらす人”なのかもしれない)



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