第12話 王宮見学、二日目。王妃からの言葉。
翌朝、クラリスは朝食を終えるとすぐに、指定された時間に王子の執務室へと向かった。
案内されたのは、城の中央塔に位置する南向きの部屋。
荘厳さを感じさせながらも、どこか静謐で、思索を促す空気が漂っている。
扉が開かれると、そこには既にレオニス王子の姿があった。
窓際の長机に向かい、彼は書類に目を通していたが、クラリスに気づくと静かに顔を上げる。
「ようこそ、クラリス嬢。……どうぞ、こちらへ」
執務室には、天井まで届く本棚、複数の書類机、地図を貼った壁、外交文書を収納する棚などが整然と配置されていた。
そして、重ねられた文書の一部には、クラリスが昨日見学した文書管理室から運ばれたと思われる封筒も見える。
レオニスは机の一角を示しながら、語りかけた。
「これは昨日提出された、各地の災害報告書。優先して対応すべきか否か、複数の判断が求められます。……君にも、ひとつ、見てもらいたい」
彼が差し出したのは、辺境地域における橋の崩落事故に関する報告だった。
人的被害は少ないが、近隣の交易に影響が出ているという。
「単なるインフラの修繕に見えるかもしれないが……そこに予算を割けば、別の都市の教育支援が後回しになる。選ぶということは、他を切るということだ」
淡々とした語り口に、クラリスは思わず息を呑んだ。
どこか机上の論理に思えていた「王の責務」が、今、目の前にある。
レオニスは、机の奥から一枚の地図を取り出した。
それは、王国全土の経済圏と交通網を示した詳細な図だった。
「これは、父王の代で作成された。だが、現実はすでに変化している。新たな視点が必要だと、私は思っている」
その視線は、まっすぐにクラリスを見ていた。
「君は“見る者”だろう。……どう見る?」
突然の問いに、クラリスは一瞬、言葉を失った。
けれど、昨日までに触れた膨大な記録や、侍女たちの姿。
そして、文書に込められた“語られぬ重み”が、頭の中で静かに繋がっていく。
「……橋の修繕は、“通る人”のためにあるだけではないと思います。物や人が動く先に、次のつながりが生まれる。切り離すのではなく、先を繋ぐための選択……かと」
レオニスの目が、わずかに細められる。
「なるほど。“流れ”を読むか。……その視点、記録しておこう」
彼は微かに笑い、手元の紙にさらりと何かを書き留めた。
執務室での時間は、決して長くはなかった。
けれど、クラリスにとっては、ただ“王子と話した”だけの体験ではない。
国家を支えるということの重さ。
選ぶことの痛みと意味。
そして、仮面の奥にある思考と意志――
部屋を出るとき、クラリスは静かに頭を下げた。
振り返った王子の横顔は、昨夜とはまた違った表情をしていた。
それが「仮面が外れた瞬間」だったのか、それとも新たな“仮面”だったのか――それは、まだわからない。
* * *
午後、クラリスは小さく息を吐いたあと、追加の見学希望書をそっと差し出した。
「厨房とその裏方にあたる施設の見学、および……可能であれば、王妃様とお話しする機会を頂けないでしょうか」
執務官は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに無言で受け取った。
* * *
案内された厨房は、昼食の余熱がまだ残る慌ただしい場所だった。
広い調理場では、複数の料理人が大量の鍋や道具を洗っており、周囲には食材の残りや使い終わった器具が雑然と置かれている。
「どうぞ、足元にお気をつけくださいませ。こちらが……倉庫と、廃棄物処理場への通路でございます」
厨房付きの年配の女が、倉庫の裏手に続く小道へとクラリスを導いた。
細い扉を抜けると、そこは冷暗な通路。倉庫にはまだ十分に使えそうな果物や野菜が積まれている一方で、別の一角には“廃棄”と書かれた木箱が無造作に並んでいた。
木箱の中には、まだ香りの残る焼きたてのパン、少し切り口が乾いただけのチーズ、ほんの少しだけ傷んだ果実――どれも、ほんのわずかな欠けや汚れで“不要”とされたものだ。
「これらは……すべて、使われずに?」
「ええ、貴族の食膳に出すには“完璧”でなければなりませんので。誰かが引き取るわけにもいきませんしね。……ま、慣れれば気にもなりませんわ」
女の言葉には諦めと自嘲が混ざっていた。
クラリスは、黙ってその木箱を見つめた。
(昨日、文書管理室で見た行政記録……地方の村では、飢えに苦しむ子どもたちがいた)
それを思い出すと、喉の奥がひりつくようだった。
(同じ王国で、余りを棄てる場所と、足りずに命を落とす場所がある)
王宮の豊かさは、ある種の“幻想”として演出されている。
そしてそれは、選抜候補者の彼女すら、いままで「見せられた」ことがなかった。
そのことに、クラリスは静かに衝撃を受けていた。
(制度に組み込まれた無意識の“差別”……目に入らないものは、存在しないとでも言うように)
この国の矛盾は、書類にも言葉にもならず、ここに沈殿していた。
クラリスは、持参していた手帳に小さく書き記した。
「足りない場所」と「余る場所」が繋がらないままでは、どれだけ整った制度も空疎である。
支える仕組みにも、見る目が必要――。
* * *
夕方、執務官から一通の伝言が届いた。
「王妃殿下より、短時間ならばとのお許しがありました」
クラリスは急ぎ身支度を整え、王妃の待つ一室へと足を運んだ。
そこには、控えめなドレスをまとった優美な婦人がいた。
王子の母、オリヴィア王妃――
「クラリス嬢ですね。お話の時間を持ちたいと、あなたが願ってくださったと伺いました」
落ち着いた声音と、どこか憂いを帯びた瞳。
王妃は静かに椅子を勧めると、自らもその向かいに腰を下ろした。
「私のことをお話ししても意味もないでしょう。けれど……あの子のことであれば、少しだけ」
クラリスがゆっくりと頷くと、王妃は窓の外へ視線を向けて語り出した。
「あの子は、小さな頃から……よく“黙っていた”のです。誰かに否定されるくらいなら、最初から言わない。理解されるまで待つくらいなら、黙って観察する。……それが、あの子の“鎧”でした」
「……言葉ではなく、沈黙で自分を守っていたんですね」
「ええ。でも、それだけでは……人の心には届かないこともあるでしょう?」
王妃のまなざしが、クラリスの方へと戻る。
「だから、私には嬉しいのです。
あの子があなたに“語る”ようになったと報告を受けました。
あなたが“見る者”であるからこそ、あの子は仮面の奥を見せようとしているのかもしれませんね」
クラリスは静かに頭を下げた。
言葉は、まだうまく返せなかった。
けれど、胸の内には確かに何かが灯っていた。
(“見る”ことと、“気づく”ことは違う。でも、どちらも誰かの痛みや孤独に近づく手段になりうる)
オリヴィア王妃はやわらかく微笑むと、最後にそっと呟いた。
「どうか、あの子を“評価”するのではなく、“見て”あげてください。見る者として、傍にいてあげて。それがきっとあの子の癒しとなるわ。
癒しって人それぞれでね。癒しの加護を持つとかではなく、誰かに寄り添おうとする心から生まれるものなの。
あの子にとっては恐らく、“見て”もらうことが癒しに繋がるわ。」
* * *
夜。クラリスは長く日誌に向かっていた。
今日の出来事、交わされた言葉、捨てられたパンの香り、王妃の微笑み――
それらすべてが、心の底でゆっくりと沈んでいく。
(私がここにいるのは、誰かに勝つためでも、選ばれるためでもない)
(この国が抱える痛みに気づき、そこに目を向ける“誰か”になるため――)
明日は、いよいよ第四次試験の最終日。
選抜戦の本当の意味が、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
けれど、今日のページは白紙のまま、しばらくペンが止まっていた。
言葉にするには、まだ追いつかない何かがある。
ただひとつ、確かに感じていた。
(“見る”ということは、誰かの思いを受け取ることでもある)
王子は試していたのではない。
見せていたのだ、自らの「内側」を――言葉の形で、空気の重さで、問いかけの鋭さで。
クラリスは、そっとペンを走らせた。
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