第11話 ただの見学では終わらない


 いよいよ始まった、三日間の「王宮生活体験」――第四次試験の幕開けだ。

 候補者たちはそれぞれ、自ら希望した内容に沿って、王宮の内側に触れていくこととなった。


 クラリスが提出した希望内容は、「文書管理室と王宮図書館の見学」「王子の執務室の見学」「城内の侍女体験」の三つである。


 朝の光が差し込む中庭を抜け、案内役の侍女に従い、クラリスは静かに歩いていた。


 見上げるほど高いアーチ状の天井、大きな窓から注ぐやわらかな光。その先にあるのが、歴代の政務記録や王族の書簡が保管されている、文書管理室だった。


 扉が開かれた瞬間、ひんやりとした空気とともに、紙とインクの匂いが鼻をかすめる。


「こちらが文書管理室になります、クラリス様。記録官が常駐しておりますので、ご自由にご見学ください」


 案内役の近侍が一礼して去ると、クラリスは重厚な扉をくぐった。


 整然と並ぶ木棚。ぎっしりと収められた巻物や報告書、革装丁の帳簿。

 歴代の王族による決裁文書、行政記録、外交のやりとり……それらが厳格に保存され、記録官たちが静かに筆を走らせている。


 クラリスは歩を進め、一冊の分厚い記録簿を開いた。

 そこには、過去に起きた飢饉への対応記録や、領地からの支援要請、それに対する中央の通達などが詳細に記されていた。


 日付、発信者、対応内容、後日の追記――すべてが丁寧な筆致で書き留められている。

 無数の命を左右する判断が、このような記録の中に息づいているのだと、クラリスは初めて知った。


 隣の棚には、前王の治世下で交わされた外交記録が並ぶ。

 盟約締結の際の覚書、条約文の草案、それに付随する使節の旅程表や通訳の記録まで――まるで、ひとつの出来事が幾層にも重なって残されているようだった。


(これは……ただの“書類”じゃない。すべて、決断と責任の重みそのもの)


 文字のひとつひとつに、苦悩や葛藤の跡が滲んでいるように感じられた。


 そして気づく。

 これらの記録の多くには、最終的に“承認印”が押されている。それは、たとえば王や宰相の名、あるいは関係省庁の刻印――


 誰が、何を読み、何を決裁し、何を未来に残したのか。

 それらの“選択”が、こうしてこの部屋に累積されているのだ。


 ふと、クラリスの目に留まったのは、数十年前の王宮改革に関する報告書だった。

 中には、今なお続く制度の原型や、当時の反対意見、修正案などが逐一記録されており、最終頁には、王の直筆で「時が証明せよ」と記されていた。


(書かれた言葉は、ただの記録じゃない。過去の声であり、未来への問いかけでもある)


 クラリスは目を閉じ、深く息を吸った。

 静寂の中に、記録された声が確かに息づいているのを感じた。


(この部屋は、国の“記憶”そのもの……)


 王子がこの国をどう見ているのか、なぜ言葉の選び方にあれほど慎重なのか――その答えの一端が、ここにある気がした。


* * *


 書架の奥にある扉を開けると、そこは王宮図書館だった。

 格式張らず、それでいてどこか威厳のあるその空間には、政治理論、歴史、地理、宮廷礼法など、多岐にわたる書籍が静かに並んでいる。


 一冊の擦り切れた背表紙の本に手を伸ばした、そのとき――


「その本は、レオニス殿下もよく読まれていましたよ」


 声の方を振り向くと、図書館付きの司書が穏やかな笑みを浮かべていた。


「殿下は若い頃から、ここでよく時間を過ごされました。……文字の中に、見えないものを探すお方です」


 その言葉に、クラリスの胸の奥がふと熱を帯びる。

 王子が放つ言葉の意味、その“仮面の奥”を見よという意図。その源が、ここにあるのではないか――そんな気がした。


 貴族だけでなく、学者たちも利用する専門書の蔵書に囲まれ、クラリスは時を忘れそうになる。

 歴史、外交、医療、魔術、王家の記録……まるで、この国の“頭脳”そのものがここに眠っているようだった。


(王子は……これらを、どれほど読んできたのだろう)


* * *


 昼過ぎには、三つ目に書いた希望である「侍女の仕事体験」が始まった。


 侍女長は王宮の日課を丁寧に説明しながら、布の整え方や給仕の所作を一つひとつ教えてくれる。


 銀器の磨き方ひとつにも、ベッドメイキングの角度ひとつにも、きちんとした「型」と「意味」があるのだという。


「誰の目に触れなくとも、細部にこそ気品が宿る。それが“宮中の空気”というものです」


 背筋をまっすぐ伸ばしてそう語る侍女長の所作には、いささかの無駄も迷いもない。


 髪の結い方、紅茶の淹れ方、掃除や対応の手順――すべての動作が、丁寧で美しい。

 優雅な暮らしの裏には、無数の手が静かに動いていること。その事実に触れるたび、クラリスの心は揺さぶられていた。


(見えない努力が、誰かの安心や信頼を支えている……)


 クラリスは、黙々と手を動かしながら、その感覚を確かに刻みつけていた。


 与えられる立場ではなく、支える側に回ることの意味――

 それはきっと、王子が求める“変化”ともつながっているのだ。


* * *


 他の候補者たちも、それぞれの見学や体験を始めていた。


 宝物館を希望した者は、歴代の魔法道具や美術品に目を輝かせ、衣装部屋を訪れた令嬢は、王妃たちのドレスに込められた意味を学んでいた。


 大臣会議の傍聴を希望した者は、緊張した面持ちで議事堂に入り、記録係の隣で王国の内政議論に耳を傾けていたという。


 厨房で料理人とともに作業した者や、庭園の管理を見学した者もいた。

 皆がそれぞれに、この国を支える仕組みに触れようとしていた。


* * *


 夕刻。赤く染まった空が窓辺に映り込む頃、クラリスは自室へと戻ってきた。


 扉を閉じた瞬間、外の喧騒が遠のき、深い静けさが彼女の胸に降りてくる。


 机に向かい、クラリスはそっと革装の手帳を開いた。

 文書管理室の記録棚、図書館の静寂、侍女たちの所作――そのすべてが、まだ胸の内に鮮やかに残っている。


 ペンを取り、静かに書き始めた。

 今日、何を見て、何を知り、どんな思いが生まれたのか。


 文字は流れるように紙面を滑り、白い頁が淡く埋まっていく。


(文書は、すべてを語るわけではない。でも……語られなかったことの重みも、そこにはある)


(侍女たちの手が支えているのは、ただの“優雅さ”ではない。“気配り”という名の、見えない鎧)


 ふと、手が止まった。


(この三日間で、私は……どこまで“見える”ようになれるのだろう)


 それは、心の奥底から浮かび上がってきた、静かな問いだった。


 誰かに認められるためではなく。

 義務を果たすためでもなく。


 ――本当に知りたいことを、見つけ出すために。

 ――この選抜戦の奥にある、真実に触れるために。


 クラリスはそっとペンを置き、目を閉じる。


 今日、触れたすべての空気が、深く、心に沈んでいく。


 そして再び目を開いたとき、彼女の視線は遠く、明日へ向かっていた。


(明日は……王子の執務室)


 その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥にかすかな緊張と高鳴りが走った。


 政治と責任、国家の命脈が交わされる場所。

 その中心に立つ者が、何を見て、何を選ぶのか――


 知りたい。触れたい。

 この目で、その重みを確かめたい。


 クラリスは立ち上がり、夕暮れの光が射し込む窓辺へ歩み寄った。

 黄金に染まる屋根を見つめながら、彼女は心の奥で静かに言葉を刻む。


(私は、“傍観者”でいるために、ここに残っているわけじゃない)


(最後まで、“見る者”であるために――)


 明日、また新しい視点に出会うために。

 そして、揺らぎながらも、自分自身の“軸”を見失わぬために。


 クラリスは、深く息を吸い、静かに目を閉じた。

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