第10話 静寂の謁見、語られた真意


 翌朝。


 空がほんのりと白みはじめたころ、クラリスは静かに目を覚ました。


 昨夜の月明かりと王子との対話が、まだ胸の奥に温かく残っている。けれどそれは、ただの余韻ではなく、何かが変わりはじめた予感として、彼女の中に根を張っていた。


(もう、“傍観者”ではいられない……)


 そんな想いを抱きながら、クラリスは身支度を整え、用意されたベルを鳴らした。


 しばらくして、近侍が静かに部屋を訪れる。


「クラリス・グレイ様。――本日、殿下よりお召しがございます。朝食後に、城の謁見の間へとお越しくださいませ」


「謁見の間……?」


 朝食を取る間も、その言葉が胸の奥で響き続けていた。


* * *


 朝の食堂は、前日までの華やかさが嘘のように静かだった。


 八名に絞られた候補者たちは長テーブルの左右に分かれて座り、それぞれの前には温かな紅茶と、焼きたてのパン、薄く焼かれた卵料理が並べられている。


 けれど、その香ばしい香りとは裏腹に、フォークの音ひとつが響くたび、皆がわずかに肩をすくめるような空気が漂っていた。


 ルナ・セレストはいつもどおり姿勢を正していたが、手元のパンには一口しか手をつけていない。

 向かい側の令嬢はカップを持ち上げたまま、何度も口元で止めていた。


 誰もが、“何かが始まる”ことを知っていた。

 選抜がさらに絞られた今、この先に待ち受ける“何か”を、クラリスは無意識のうちに感じ取っていた。


 クラリスはそんな空気を感じ取りながらも、静かにナイフを動かした。

 冷める前に食べる――それだけの理由で、ではなかった。

 たとえわずかでも、自分の輪郭を保つための行動だった。


(この空気に飲まれてはいけない)


 誰かと目を合わせることなく、しかし意識だけは全体に向けながら、クラリスはひとつひとつの動作を丁寧にこなした。


 ふと、斜め向かいに座るルナと視線が合った。

 彼女は驚くでもなく、自然なまなざしをクラリスに向けると、小さくうなずいた。


(……ルナ嬢も、わかっている)


 この場が、すでに新たな“試験”の始まりであることを。


 そのとき、食堂の扉が静かに開き、城の侍従が一歩前へと進み出た。


「皆さま。殿下がお待ちです。食後、お揃いになり次第、謁見の間へご案内いたします」


 ぴん、と張り詰めたような空気が流れる。


 紅茶に映る光が揺れ、クラリスはそっと椅子から立ち上がった。


* * *


 やがて時が満ち、案内に従って辿り着いたのは、広く、静謐な石造りの謁見の間だった。


 八名の候補者たちはすでに揃っていた。皆、どこか緊張の色を浮かべつつも、凛とした面持ちで王子の到着を待っている。


 やがて、奥の扉が静かに開いた。


 レオニス王子が、ゆっくりと歩み出る。


 その表情はいつも通り穏やかで、しかしどこか、今までとは違う“覚悟”を帯びていた。


 全員が礼をとったあと、王子は視線を巡らせて口を開いた。


「改めて、第三次試験までを通過された皆さんに、祝意を。……よくここまで残ってくださいました」


 沈黙のなかで、その声だけが柔らかく響く。


「皆さんは、表に出た情報や見えやすい印象に惑わされず、自らの“目”で状況を読み、考えを導き出した。――私は、その姿勢を、何より重んじたいと思います」


 彼の視線が、一人ひとりに丁寧に向けられる。


 そして、言葉は次第に核心へと踏み込んでいった。


「さて……皆さんは、きっと疑問に思っていることでしょう。なぜ、私は“このような形”で選抜を繰り返してきたのか」


 静かに紡がれた問いかけに、謁見の間の空気がぴんと張りつめた。

 誰もがその言葉の続きを待ち、息を詰めるようにして王子を見つめている。


 レオニス王子は、しばし遠くを見るように目を細めた後、深く、静かに息を吐いた。

 そして、真正面から彼女たち八人を見据えた。


「……この選抜戦は、“形式上”は王太子妃を選ぶための儀式として設けられたものです。けれど、私は……ただ婚姻の相手を決めたいだけではない」


 その声には、重みと決意が込められていた。


「私は、変わらなければならないと思ったのです。この国が。そして王宮が。――変わるべき時が、もう来ていると」


 その言葉に、候補者たちの間で微かなざわめきが走る。

 だが、王子はそれに動じず、言葉を続けた。


「長い年月の中で、この国は“見せかけ”に縛られてきました。格式、血統、家柄……それらは確かに、大切な価値の一部です。否定するつもりはありません。ですが、それだけでは……人は真に守れない。未来は築けない」


 彼の瞳に、はっきりとした光が宿る。


「だからこそ、私はこの選抜において、“形”を壊し、“本質”を見極める場を設けました。何が正しいのか、誰が信じられるのかを、私自身の目で確かめるために――」


 静けさの中に、言葉の温度がゆっくりと上がっていく。

 その声音には、誤魔化しのない真実がこもっていた。


「この場にいる皆さんを通して、私は自らに問いを投げかけ続けてきました。――“私は、誰を信じ、何を変えることができるのか”」


 一瞬、王子は言葉を切り、静かに周囲を見渡す。

 そこには、選ばれし八人の令嬢たち。

 気高さと不安、覚悟と希望を胸に宿しながら、じっと王子を見つめていた。


 そして、彼は静かに微笑む。


「今、こうしてこの八名と向き合うなかで……ようやく、その答えに、ほんの少しだけ手が届く気がしているのです」



 ふ、と少しだけ表情をやわらげた王子は、ゆっくりと告げた。


「第四次試験は、三日後に実施されます。それまでのあいだ、皆さんには“王宮での生活”を体験していただきます」


 その言葉が響いた瞬間、謁見の間にざわめきが走った。

 戸惑いと緊張が交錯し、誰もが思わず隣の顔を見やる。


 クラリスもまた、静かに息を呑む。


(……王宮での生活?)


 レオニス王子は、その反応を予期していたように、ゆっくりと視線を巡らせた。


「使用人や近侍たちの仕事、宮廷での礼儀、日々の来客対応、さらには城内での過ごし方や判断力……。皆さんには、そうした日々の“営み”に触れていただきます」


 その声音には、ただの試験官ではない、“この場の主”としての厳格さと誠実さが宿っていた。


「私は、王太子妃としての“所作”だけを見たいのではありません。――この国に立つ者として、何を見て、何を思い、どんな行動を取るのか。それを、この三日間で見極めたいと考えています」


 それは、ただ着飾り、振る舞うための試練ではない。

 格式の裏にある、“本質”に触れる日々。


 単なる“王子の花嫁”ではなく、国を共に担う者としての器を、問われる時間。


 クラリスは、ゆっくりと拳を握った。


(私は……この目で、最後まで見届けると決めた)


 この場に立つ王子が、何を見つめ、何を変えようとしているのか――

 そして、自分はその“仮面の奥”をどこまで見抜けるのか。


 彼女の中で、小さな覚悟が音を立てて芽吹いていた。


* * *


 その後、近侍が静かに一歩前へ進み出て、一人ひとりに紙と封筒を配りはじめた。


「ただいまより、“三日間のあいだに見学・体験したい場所や仕事、過ごし方の希望”を伺います。記入後は封筒にお納めいただき、一時間後に回収に参ります」


 その言葉に、候補者たちは驚きの表情を見せながらも、真剣に紙を見つめはじめた。


 用紙の上部には、手書きでこう記されていた。


 ――「三日間のあいだに、あなたが“見たいもの”、“触れたいこと”、“知りたいこと”をお書きください」――


 それは、ただの希望申請ではなかった。


 自分自身が“どこを見ているか”を、王子に示すための一枚。


 クラリスは、手にしたペンを静かに構えた。


(……私が、本当に知りたいこと)


 彼女の心の奥で、確かな光が揺れていた。

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