第9話 見届けると決め、芽生える信頼。


 夕食を終えたあと、クラリスは部屋に戻ることなく、ひとり静かな回廊へと足を運んでいた。


 第三次試験の結果が告げられてから、すでに数時間が過ぎていた。

 八名に絞られた候補者たちは、それぞれの部屋で休息を取るよう勧められていたけれど――

 クラリスは、どうしても心のどこかがざわついて、じっとしていられなかった。


(残った……私は、あの中に選ばれた)


 それは不思議な感覚だった。

 誇らしいわけでも、嬉しいと明確に思えたわけでもない。

 ただ、選ばれたという事実が、胸の奥に小さな波紋のように広がり続けていた。


 歩くたびに、石造りの床をやわらかく靴音が鳴る。

 壁に掛けられた燭台の炎がわずかに揺れて、長い影がゆらゆらと延びていく。


 静かだった。まるで、世界に自分ひとりしかいないような、そんな静寂。


 そんななかで、ふと、背後から名を呼ばれた。


「……クラリス・グレイ嬢」


 はっとして振り返る。

 穏やかな声の主は、レオニス王子だった。


 誰かを連れている様子もなく、彼もまた、ひとりきりでその場にいた。

 月明かりが回廊の高窓から差し込み、王子の金の髪と澄んだ瞳をやわらかく照らしていた。

 その足元にのびる影は長く、静かに床を這っていた。


 不思議と、夢の中にいるような気持ちになる。


「少し、話をしてもいいかな?」


 その声は、いつものように朗らかでいて、どこか確かな重みを含んでいた。


 クラリスは、胸の奥のざわめきをそっと押しとどめるように、深く息を吸ってから、うなずいた。


「……はい」



* * *


 通されたのは、城の一隅にひっそりと設けられた小さな応接室だった。


 外の静寂とは対照的に、室内にはほんのりと暖かい空気が満ちていた。

 壁には落ち着いた色味の織物が掛けられ、重厚な木製の家具が並ぶ空間。

 暖炉の奥では小さな火が静かに揺れ、薪がぱちぱちと音を立てている。

 揺れる炎の光が壁に影を踊らせ、まるでこの一室だけが別の時間を生きているようだった。


 レオニス王子は静かに椅子に腰を下ろし、対面の席を指さす。


「ありがとう。……こんなふうに、急に呼び出してしまって」


「いえ。……何となく、話をしたいと感じていたのは私も同じでしたから」


 言いながら、クラリスは椅子に腰掛ける。

 背筋は伸びているけれど、指先にはわずかな緊張が宿っていた。


 王子は、ふっと目を細めた。


「そう言ってくれると、少し救われるよ」


 その微笑みには、珍しく、どこか照れたような雰囲気すらあった。

 けれどその表情はすぐに静まり、淡い憂いを宿したものへと変わる。


「……君は気づいていたよね。試験が“試験そのもののため”ではなかったことに」


 クラリスは、そのまっすぐな視線を受け止めたまま、軽くうなずいた。


「ええ。あれは、“誰かを見抜く”ための舞台だった。……ただ、誰を、そして何を見抜こうとしていたのかまでは、まだ分かりません」


 王子はわずかに目を伏せる。


「この選抜戦は、形式上は私の“花嫁”を選ぶ場として設けられている。だが、私が本当に知りたかったのは、そこではなかったのかもしれない」


 その声音には、確かな迷いと、言葉にしきれない疲れがにじんでいた。


 クラリスは王子の言葉を一つひとつ噛みしめるように聞き、そして静かに問いかける。


「……では、あなたが見ようとしていたのは?」


 しばしの沈黙ののち、レオニス王子は静かに口を開いた。


「“この国を託せる人間が、まだどこかにいるのか”――それを、確かめたかったんだ」


 その言葉は、炎の音に溶けるように、部屋に落ちた。


「父は、“血統と格式”を第一に考える人でね。名門の家柄を集め、そこから妃を選ばせようとした。……でも私は、それだけでは、何も変えられないと思っている」


 王子の声には怒りはなかった。ただ、ひたむきな願いだけが滲んでいた。


「この国が変わるなら……変えなければならないのなら。その中枢に立つ者は、“真実を見抜く目”と“語る力”を持たなければならない。黙ってうなずくだけの妃ではなく、同じ高さで見てくれる人を、私は探していたのかもしれない」


 クラリスは、小さく息をのんだ。


「……でも、それはきっと――あなた自身が、“目を逸らしたくない人”だから」


 王子は驚いたように、クラリスを見た。


「どうして、そう思う?」


 クラリスは視線を下げずに、まっすぐに言葉を重ねる。


「あなたは、試験の中で“仮面の奥を見抜け”と言いました。……でもその言葉は、きっと私たちにだけでなく、あなた自身にも向けていたのだと思います。どんなに残酷な真実であっても、それを直視する勇気を、あなたは求めていた」


 しばし、室内に沈黙が落ちた。


 暖炉の火の音だけが、一定のリズムで空気を震わせている。


 やがて王子は、ふっと肩の力を抜いて、静かに微笑んだ。


「君は、本当に……変わった人だね」


「変わってますか?」


「怖いはずだろう。王宮で、王子と二人きりで、こんな話をしているんだから」


 クラリスもまた、目を細めた。


「怖いですよ。……でも、それ以上に、知りたいと思ってしまう。あなたが何を見ようとしているのか、この国の未来がどうあるべきなのか――それを知りたいという思いの方が、ずっと強いんです」


 王子はそっと立ち上がった。

 そして、窓の傍へと歩み寄り、外を見やる。


 そこには、夕焼けが消えかけた空に、淡く浮かぶ月が照っていた。

 まだ夜には早いが、月明かりは確かにこの城を照らし始めている。


「君のような人に出会えて……よかったと思っているよ、クラリス・グレイ嬢」


 その言葉はあまりにも率直で、クラリスは一瞬、言葉を失った。


 けれど、やがてゆっくりと、口を開く。


「……私は、最後まで残るつもりはありません」


 その声は静かで、けれど確かな意志を宿していた。


「でも、私は最後まで見届けると決めました。この選抜戦が何を意味し、何を導こうとしているのか――それを、自分の目で知りたいんです」


 王子は、深く頷いた。


「それでいい。君の目で、最後まで見届けてくれ。

 ……君と話していると、私の方こそ“見透かされている”ような気がするよ。

 怖いけれど、なぜだか心地いいんだ。不思議だね」


 その言葉に、クラリスもまた、静かに頷き返した。

 炎の灯る部屋のなかで、ふたりの間には、まだ言葉にできない“信頼”のようなものが芽生えつつあった。


* * *


 その夜。


 クラリスは部屋に戻ったものの、すぐに寝台へ向かうことはなかった。


 控えめな明かりだけが灯された室内で、彼女はしばらくのあいだ、窓辺に立ち尽くしていた。


 カーテンをわずかに押しやると、夜の風がそっと入り込み、肌を撫でる。

 広がる景色は、月光に銀化粧された庭園――昼間の試験の舞台だった場所とは思えないほど、静謐で、幻想的だった。


 噴水の水面は静かに光を返し、木々の影は地面に揺れるレース模様を落としている。

 人の声も足音も届かないその静けさのなかで、クラリスは思い出す。

 午後の試験、王子の言葉、そしてあの応接室での対話。


 ――“君の目で、最後まで見届けてくれ”。


 その言葉が、胸の奥に温かな灯火のように残っていた。


(……私は、誰かに勝ちたいわけじゃないし、選ばれたいとも強く思っていない)


 ふと、自分の心の輪郭がはっきりと見えた気がした。


(でも、それでも……この選抜戦が意味するものを、私は知りたい)


 見せかけの優雅さや格式の裏にあるもの。

 誰かの望みや、誰かの痛み。

 隠された真実と、変わろうとする意思。


 それらを見過ごさず、ただ“見る”こと。

 自分の目で、曇りなく、まっすぐに。


 そのためにここにいる――その実感が、静かに、しかし確かに心に根を下ろしていく。


 夜の冷気に肩をすくめながら、クラリスはそっと窓を閉じた。

 そして、ようやく寝台に向かう。

 ゆっくりと、深く息を吸い込みながら。


 静寂のなか、胸の奥に芽吹いた覚悟は、淡い光を灯すように、彼女の心を温めていた。

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