第一章 満月に至るまでの日々 三

 デミルの身分は客である。

 実の兄弟ではない。客分として、学校に通うことになったと、ある日突然やってきた。アラニエが七歳、兄のギノとデミルが九歳。

 はじめ、彼は病を患っていて、祈祷かなにかをしてもらうために来たのかと思われた。顔はほっそりとしているのに、首から下は丸々と肥えている。そんな子どもは見たことがなかったからだ。このあたりの子どもは大抵、とても痩せているか、ほどほどに痩せているか、どちらかである。だから、アラニエは彼を気の毒に思った。

 後日、仰天した。顔だけではなく体もほっそりとしているデミルを見たからである。何のことはない、荷物を少なくするため、持参した服を全て重ねて着込んでいただけで、彼は痩せている方だった。周りも気の毒に思ったのだろう、とうもろこしだの芋だの、杏だの胡桃だのを与えられ、彼は少しずつ丸くなった。


 彼を連れてきた従者は次の日には館を後にしていた。

 つるぎとりの館ではなく、小さな離れに寝起きするようになった。食事はアラニエ達と同じものを食べているようだが、使用人の部屋で済ませていた。


 人見知りのアラニエは彼になかなか馴染まなかった。ある日、彼はアラニエに目線を合わせて、「ザイナスという、暖かい国の王子だよ。五人目か、六人目かだけどね」と言った。アラニエが絵物語を好むことを誰かに聞いたのだ。冗談かと思いきや本当のことらしい。しかし彼の振る舞いはちっとも王子らしくないので、どんなに周りが保証したところで疑念は消えずにいた。チュリマスの息子、ベルルスが「王子だからって四六時中冠被って過ごしているわけがないでしょう」と馬鹿にするので、アラニエはベルルスが嫌いになった。無論、そんな事を思っているわけがない(このやりとりをデミルに言いつけたら、「冠は被ったことがないが、そんなにいつも被ってたら、汗で蒸れてかぶれてしまうんじゃないか?」と真面目に意見を述べていた)。

 彼はいつも顔や首筋、腕に細いひっかき傷を作っていた。アラニエはなんとも思わなかったが、ある日、彼の爪が伸びていることに気づいた。故郷から爪切り鋏を持ってきそびれたのだろう。まだ、誰も気づいていない。朗らかで、従者がいなくなっても明るさを失わないデミルも、ひそかに遠慮をしているのかもしれない。アラニエは、人見知りの部分を必死で押し殺し、借りてきた爪切り鋏をデミルに差し出し、「よかったら、私が切って差し上げます」と、震える声で申し出た。デミルは戸惑ったようだったが、アラニエの申し出を受け入れてくれた。

 その頃から、少しずつ打ち解けた。

 外の目が無ければデミルは気兼ねなくギノ、アラニエと呼んできたし、アラニエもデミルと呼んだ。跡取りとしていろいろ気をつかう実の兄よりもずっと親しく育った。


 ザイナスは東西を繋ぐ隊商路であるシルバーラインの要衝である。規模は、カラカスのような田舎とは比べものにならない。何人目にせよ、王子であることにかわりはないのだから、それを笠に着て威張っても良いようなものだが、彼は決してそんなことはしなかった。それどころか、カラカス族の者じゃ無いからと無碍な扱いをされても、全く意に介さなかった。

 それどころか、よく働いた。灌漑を直し、畑仕事を手伝って、羊や山羊を放牧に連れて行く。死の近い者をいたわり、その家族の手を握り涙を流す。子どもが生まれれば我が子のように喜ぶ。学校に来ている近隣の貴族の子は、普通カラカス族とは一線を引いて過ごしているものだが、彼だけはまるでそちらが主であるかのように、カラカスとまじわって過ごしている。

 アラニエは、趣味で集めた絵本を使って子ども達に読み書きを教えているのだが、デミルもそれを手伝った。文字だけで無く、花の名前、ケナガウマの毛の狩り方、星蜜林檎を雪に埋めて熟させる方法、雲の流れ方と天気の相関、近隣の国の関係性など、彼がカラカスにおいておそらく必死で獲得した知恵を惜しげも無く教えた。

 誰も近づかない地下牢にも頻繁に訪ね、罪人の話を聞き、心を砕いてやっているようだ。そんなことはギノもしない。出自にこだわらずカラカスに尽くす働き者のデミルのことを、カラカスの住民は受け入れている。


 数年たち、ある日、アラニエは、「デミルは故郷に帰りたいと思わないの」と聞いた。陽気で優しいデミルが、珍しく目を伏せた。わずかな間があった。まつ毛の間から、涙がこぼれたように思った。次の瞬間、デミルは明るい顔を持ち上げて、「ザイナスはここよりも暖かくて住みやすいから、あまりに寒い時には帰りたいかな」と言った。おどけたのか、真実なのか。アラニエにはわからなかった。一瞬の寂しげな横顔は、錯覚だったか。デミルが本心を顕わにしたことがあるとするなら、その一瞬しかなく、今まで読んだどの物語の挿絵にも似ていなかったが、長くアラニエの心に留まることとなった。

 本当の意味での客人では無いのだと、後に気づいた。そして、あの質問はするべきではなかったのだと、誰に言われるでも無く気づいた。政治的に不要な王子は、諸外国への敵意が無いことを示すためだけに、聖地で神学を学ばせるという建前で投げ渡された、いわば人質であったのだ。

 彼は故郷から追われた深い悲しみを持ちながらも、人を慈しむことをやめなかったのだ。それだけは間違いなかった。


 この十年、アラニエは何度かデミルに恋心を感じた。気温が下がってはじめて落ちてくる雪の一粒のような、ささやかではかないものだ。デミルの方でも、アラニエの前では寛いだ様子を見せ、弱音を漏らすこともあった。恋というのは、例えるなら心の中心に実っている杏に優しい風が吹くことと、その余韻であると、アラニエは学んだ。

 優しい風は時々吹いたが、結局のところデミルは杏を摘み取る人ではなかった。要所の貴族にでも嫁ぐことで、アラニエは十分政治的に役立つことがわかったし、デミルは自分の身分をきちんとわきまえているからだ。そして二人とも、カラカスをこの上なく大事に思っている。

 ただ、風がもたらした余韻は密かにずっと感じていたっていい、とアラニエは思っている。それだけはアラニエのものだからだ。

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