第一章 満月に至るまでの日々 二

 館にとどまるチュリマスと別れ、エルに乗って神殿に向かった。少し距離があるが、ケナガウマの健脚ならひと飛びだ。


 山羊の民が去った後、誰も入らないように鍵がかけられた。だが、こつを掴めば簡単に外れる。神殿という大層な呼び方をされているものの、実質は廃墟である。以前は存在した価値あるものは学校の方へ移されたので、神殿と呼ばれては居るものの、さほど尊重はされていない。

 造りはつるぎとりの館と似ているが、格子の模様や木彫梁などに幾何文様が用いられていること、はめ込まれたガラス窓、飾り窓が特徴的だ。加えて、ここには館とは違うものがある。壁画だ。

 普通、建物の四方には壁を拵えるのが普通だが、この建物の奥側については、切り立つ崖を壁代わりにし、異教徒の神であろうか、人を模したと思われる壁画が刻まれている。

 当然ながら、描かれているのがどのような存在であるか、アラニエにはわからない。しかし、偏執的なまでに同じモチーフを繰り返し、壁一面を埋め尽くさんとしているようなこの絵を見ていると、何かを深く崇拝する人がここには確かにいたのだとしみじみわかる。鍵を開けて重い扉を開け放つと、過去に流入した、あるいは元からここにあった文化が、風に混じってにおいたつのだった。

 ここにいたら、どちらかというと自分の方が異邦人のように思える。この感覚が、この建物を「神殿」と敬意を払って呼ぶ割にないがしろにする理由ではないだろうか。恐ろしく前の時代に刻みこまれた熱烈な信仰は、すっかり形がなくなっても、人を怖じ気づかせる。

 中庭には豊かな杏の香りがする。この間、しこたま収穫した氷杏を、ありったけの平ざるに並べて干しているからだ。それを、一階の吹放ちの間にせっせと移動した。よく乾いて表面が白ばんでいるのを一ざる抱えて、館に戻ることにした。


 平ざるをエルに乗せて歩いていると、集落の中央の水場に人だかりが見えた。幼い子どもがしのび泣く声が聞こえるが、不思議なことに、雰囲気は穏やかだ。

 子ども達の中に一人だけ、中腰になって子どもと目線を合わせている青年がいた。顔は見えなかったが、デミルだろうと、すぐに見当がついた。デミルは子どもに好かれるので、彼の居る場所には自ずと子どもが集うし、もめ事も起きにくいように思う。

 一人の女の子が、「ねえさま」と呼んだので、皆がこちらを向いた。群の中央にいるのは、正確にはデミルでは無く、もっと小さな男の子であった。デミルは屈んで、濡らした布を、こけたか何かした少年の踵にあてがってやっている。濡らした布から、血の混じった水が滴り、地面に小さな染みをつけていた。

「まあ、大丈夫……」

 少年は目を真っ赤に泣きはらしているが、アラニエにはゆっくりと頷いてみせた。

「大丈夫、こけただけだ。そこに石のかけらがあったので切ってしまったんだな」

 血の滲んだ布を、傍らに流れる水路で濯ぐ。新しい清水を含んだ布をあてがわれ、少年はか細く「冷たい」と言ったが、涙は出ていない。

 平ざるを降ろして少年をエルに乗せた。少年はその首筋を抱きしめた。よく心得ているエルは、アラニエが鼻筋をさすると、ゆっくりと歩き出した。

「姉様、こわい」

と、傍らにいた少女が寄り添うので、後ろを見ると、いつのまにか白い犬がアラニエ達の後を尻尾をふりふり着いてきている。

「あれ、狼?」

「違う違う、犬よ。今、館にいらしてるルーサム商団の番犬よ」

「犬はもっとむくむくして、毛がいっぱいあるし、小さくて、こわくないけど」

 カラカスにも犬はいるが、寒さを耐え抜くための長毛がむくむくとしていて、目は小さく愛嬌があるし、狼犬よりは小柄である。

 歓迎されたと思ったのか、白い犬は舌をなびかせてアラニエに駆け寄った。子ども達から声のない悲鳴が生まれるが、全く気にしていない。何を勘違いしてか、アラニエとエルの間をぐるぐると歩き回る。

「ルーサム様、姉様を王子様のところまで連れて行ってくれるために、この度いらしたんでしょう?」

と、ある少女が大人びた口調で聞いた。

「違うわよ。ルーサム様も、商団の皆様も、いつもどおり、お仕事でいらしてるの。お皿や本を売ったり、胡桃やお酒を買ったりね。いつも通りしばらく逗留して、ここから次の町に行かれるときに、私がマカンベリーまで行くのが心配だからって、ご親切で途中まで付き添って下さるの」

「狼みたいな犬と行くの、怖くない?一匹じゃないんでしょ」

「ちっとも怖くないわ。この子は昨日も一緒に寝たけど、とても良い子よ」

「この白い子にも名前があるの?」

「さあ……商団の方に聞いたらわかるかしら。会うことがあったら、聞いておくわね」

「どこまで一緒に行くの?大橋の向こう?」

「クザニス橋よりは随分先に行くでしょうね。具体的にどこまで行くかとなると……」

 言葉に詰まった。何しろ、アラニエは生まれてこのかた集落を出たことがない。

「シルバーラインまで行ったらいくらか安全だから、その辺りまでかな。商団は次にザイナスを目指すそうだから」

と、代わりにデミルが答えた。

「姉様が王子様のところに行ったら、姉様は女王様になるの?」

「ならないわ。ただ、誰かの妻になるだけ」

「姫様は、姫様じゃ無くて何になるの?」

「なんて呼ばれるのかしらね?普通なら、王子妃殿下とか、妃殿下とか……そう呼ばれるんでしょうけど、お相手がなんだかね、王子様ではあるんだけど、王様にはならないらしいから、見当がつかないわね。普通に名前で呼ばれるんじゃないかしら」

 子ども達にはぴんと来ないようだった。そういうアラニエもいまいち把握できていない。

「ねえ、姉様、それって氷杏ですか」

と、スカートにまつわり付きながら幼い少女が聞いた。

「そうよ、お砂糖はまだまぶしていないけどね」

 途端、子ども達は色めきたった。この村では数少ない甘味である。「ナーナ、食べたい」「姉様、おひとつわけてください」「お爺さまに持っていきたいから、私にはふたつ下さいませんか」「僕たちデミル様のお手伝いで、紅花芋をたくさん植えました」

「みんなの姉様が困ってるよ」

「いいのよ」

 デミルが窘めたが、アラニエがそれを制した。理由が何であれ、子ども達によってたかって甘えられるのは随分いい気分だからである。当然、困るわけがない。

「もちろん、いくらでも食べて。家族に持って行って。ただし、喧嘩しないのよ。欲張りも、意地悪もだめ。泣き虫もね。わかった?わかった子からどんどん持って行きなさい」

 わっと沸き立ち、手が伸びた。もらった子から順次思い思いの礼を言ってそれぞれの家に走って行った。白い犬も、犬なりにはしゃいで参加した後、突然耳をピッと立てて、矢のように駆けていった。犬笛で誰かが指示を出したのかもしれない。

 気づいたら、平ざるに盛っていた氷杏の山は、たったの二つになり、笑顔の子ども達に構われたアラニエは、蒸し芋のようにほかほかになっていた。満足して、残った氷杏のうち大きい方をデミルに差し出した。

「いや、俺はいいよ」

「たった二つなら、はじめから無いのとだいたい一緒だわ。大丈夫、私も一つ食べてしまうから。それならエルがいなくても一人でざるを持てるし」

 その言い訳に納得した様子ではなかったが、デミルは受け取った。二人で、立ったまま氷杏を食べた。喉に透き通るような涼しい甘さが通り抜ける。この手の果実はねっとりとしているものだろうが、氷杏は爽やかで後味が残らない。干すとより味わいが冷たく、良い香りが増す。砂糖をまぶすと良い保存食になる。カラカスの数少ない名産である。

「これは、持って行くものだろうに……」

「甘いのがざる一つ無くなったって、誰も気にしないと思うわ」

 持って行く、というのは、輿入れ先にという意味を含んでいる。氷杏は顔見せに持参する土産のひとつだった。いささか田舎くさいが、珍しいものではある。

「だいたい、マカンベリーなんて都会にお住まいの王子様は、私の知らないようなもっともっと洗練されて煌めいているものをお好きなんじゃ無いかしらね?山ほど持って行ったって困るんじゃない?まあ、私は氷杏が好きだから、私が食べればいいから、困らないわね」

「俺も好きだよ」

 デミルはちょっと寂しそうに笑った。アラニエは照れて目をそらした。固くなった手のひらや足首には、逞しさが顕われているのに、顔つきの柔和さや首筋の細さには、まだ成長しきらない少年の柔らかさが残っている。

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