第一章 満月に至るまでの日々 四

アラニエは、辺りを見回した。人の目はない。

「デミル、見て」

 それでも、注意深く辺りをうかがいながら……アラニエが体をかがめると、デミルも付き合って実を縮める。懐からそっと刀袋を取り出した。絹の袋に、複雑な刺繍が入っている。巻き付けてある組紐の色の奇抜な組み合わせも、その奇妙な結び方も全て、山羊の民の手によるものだというのは、カラカスの者であれば一目瞭然であった。案の定、デミルがたじろいだ。おもしろい。

「俺は……本物は、見たことがないが……これは、そうそう外に持ち出してはいけないものじゃないのか?」

 つるぎとりの館には、代々伝えられる宝として、氷蜜石の剣というものがあるらしいが、アラニエは見たことがない。

「いかにもだけど、違うわ、氷蜜石じゃない。これは、山羊様からのお祝い。つるぎとりの家から、別の国の王子様に輿入れするのってはじめてなんですって。だから父様がお伺いをたてたのよ、そうしたらこれを下さったの」

「ああ……だから、山から狼煙が上がっていたのか」

 狼煙は、山羊の民からの返答である。

 先日、アラニエとギノはつるぎとり……父の部屋に呼ばれた。部屋の中には父と、山羊の民達がいた。

 山羊の頭蓋骨を利用した仮面。乳白色の角の群。ぼろのはぎれを獣の皮とを継ぎ合わせ、ひもでくくったような独特の服装。獣の匂いと雪の清浄さを同時に纏っている。彼らの姿を見るのは母の葬儀以来のことで、アラニエは立ちすくんだ。

 父の側に、一際大きな角の山羊の民がいた。腰は曲がり、太い杖を床に押しつけて静かに立っている。彼女のことは覚えていた。この集団の指導者で、ゾラと呼ばれている。ゾラは、アラニエに向き直り、手を交差させて敬意を表する挨拶をした。周りの山羊の民達も、ゾラに倣った。慌てて、アラニエも礼をした。ゾラはアラニエに手のひらを出させ、小さな声でなにやら唱え、恭しく刀を置いた。山羊、氷、神をあらわす幾何学模様が縫い込まれていることはアラニエにもわかったが、解説はなかった。

「だから持ち出していいのよ。ただ、検閲みたいなものがもしもあって、私が持ち込んだ荷物からこれが見つかったらとても気まずいじゃない?だからこう、身につけているの」

「護身刀だろうから、それでいいんだろうが、服の下ならすぐ見つかってしまわないか?」

「そうね……」

 確かにそうかもしれない。服の上から押してみると、簡単に浮かび上がる。

「ちょっと考えてみるわ。まあ、狙われるような身分になるわけじゃないし、きっと私はこれを使うことはないわね。でも、いつか子どもができたらこれを譲るんでしょうね。そのときに、ゾラ様のお気持ちもきっと少しはわかると思うわ」

「今だってわかるだろう?アラニエの幸せを祈ってくれているんだよ」

 アラニエは少し言葉を選んだ。山羊様。カラカスから去った、敬虔な修験者達。

「山羊様達は、心の中心に神様が太い柱と梁をお作りなのよね。私だって神様のことは学んだけど……幸せに対しても、不幸せに対しても、山羊様たちと私とは解釈が違うの。私は婚約をいいことだと思っているけれど、きっとゾラ様は違っていらっしゃるのね。だから刀なのよ」

 誰が守ってくれるでもない、だから自分で自分を守るように。忠告めいたものをアラニエは感じたが、この婚姻を、いささか深刻に考えすぎではないだろうかとアラニエは困惑した。このカラカスでは前例がなかっただけで、政治的な安定を求めて血縁を結ぶ例が世界に皆無なわけがないではないか。この話はマカンベリーから持ち込まれたと聞いていた。田舎者が大騒ぎしているだけで、大国にとっては慣れ親しんだ慣習の一つなのではないか。

「アラニエ、前から思っていたんだけど、……」

「なに?」

「その……結婚に対して、あまりにも思い入れがなさ過ぎないか?王子様と結婚するんだぞ、もっとはしゃいだり、落ち込んだり、そういう感情の起伏がなさ過ぎるような気がするんだが」

「王子様って言っても、王位継承権は放棄しているのよ」

「それにしたって……王子様だぞ」

「それを言うなら、デミルだってそうじゃない」

 デミルは少しうろたえて「俺は、」と言いかけたが、良い言い訳が見つからなかったようで、頭をがりがりと掻いた。

 デミルの考えはわかった。夢見がちなアラニエが、王子様との結婚でのぼせあがって無いことを不思議に思っている。とっておきの一番いい絹でお姫様のドレスを縫うわとでも言い出すと思っているのかしら。

「ドレスは縫わないわ。母様の礼服をもらうから」

「ああ、そうだな」

「裁縫はできるに越したこと無いけど、しないならそれが一番」

 デミルは少し笑い、アラニエはそれを見てほっとした。

「いつ出るんだ?」

「次の、満月の日の夕方。晴れていたらだけど」

 見て見て、と、アラニエはポケットの中の小さな小袋を見せた。中には、この数年貯めた氷杏の種が入っている。笑顔の奥で、優しさがデミルの目を曇らせたのがわかった。

「アラニエ……」

「わかってる、わかってはいるけど、もしかしたらちゃんと育つ土だってあるかもしれないし、もっとおもしろいものができるかもしれないわ。試してみたいのよ。これは良い機会ね。だからできるだけ多く貯めたのよ。結構な数よ、これは」

 不思議なもので、氷杏の種をカラカス以外に植えると、ただのありきたりな杏が育つ。その性質がただの杏に希少価値をもたらしている。

「驚いたな、どうやって貯めたんだ……こんな短期間に」

「ずーっと前から、貯めてたの。食べてね、こっそり洗って……持って行ったら怒られるかもしれないからね。見せたのはデミルだけよ。秘密よ、これは」

 デミルは、アラニエが二人きりの秘密の相手に自分を選ぶと、ひっそりと喜ぶのを知っていた。だが、デミルはあまり笑わなかった。

「ルーサム商団が来ているだろう」

「ええ、来てるわね。ルーサム様は私が嫁ぐことを知って、絹の布をくれたわ」

 それだけではなく、途中まで先導してくれることになっているのだから、いつもよりも豪勢で長いもてなしが行われている。

「前回の帰り、荷車が一つ襲われたと言っていた。大橋が見える辺りでだそうだ」

「まあ……近いわね……」

「雪狼団の連中がそのような近くまで来ているらしい」

 さすがのアラニエも言葉を失った。アラニエの前では、ルーサムはそんな話はしなかった。ただ、アラニエを抱きしめ、幸せを祈ってくれた。マカンベリーにもしばしば行くから、そのときはもてなしてくれと冗談を言った。そんな危険を承知の上で、来てくれているのか。そんな顔はちっともしていなかったのに。

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