第一章 満月に至るまでの日々 一
朝、アラニエは必ず家畜舎でエルの世話をする。
つるぎとりの館は四階建て構造で、一階は家畜舎と貯蔵庫を兼ね、中層に居室、上層に謁見・儀礼室、最上層に眺望用のバルコニーがある。アラニエの部屋の下が家畜舎だ。
髪を簡単に結って階段を降りると、アラニエの部屋で寝ていた犬たちがあとを着いてきた。アラニエの犬ではない。昨日からカラカスを訪れているルーサム商団の連れている番犬である。
家畜舎には、門番のチュリマスがいた。
「おはようございます」
アラニエは欠伸をかみ殺しながら、「おはよう」と返事をした。
「眠れなかったのですか?」
「ケナガウマたちが騒いでいたから、気になって……犬たちが興奮していたから、私の部屋に入れたんだけど」
白い犬がアラニエの脇から鼻をねじ込んできた。主人でもないアラニエを見つめ、楽しげに尾を振っている。見た目はほぼ狼だが、陽気だ。
「犬たち、部屋では騒がなかったでしょう」
「そうなの。各々、好きな場所を選んで静かにしていたわ。この子は私の毛布に入ってきたから、一緒に寝たわ」
「ルーサム商団の連れている犬たちは、よく訓練されていて攻撃性も高いですが、一方、非常に友好的で人が好きですね。私のところでも一匹預かりましたが、足下に寄り添って静かにしていましたよ」
いつもなら余裕のある家畜舎は、商団の連れている荷馬達がくつろいでいる。アラニエの声を聞き分けたエルが、鳴いてアラニエに跳ね寄った。抱きしめ、なでさすり、耳の裏をかいてやると、首を振るって楽しげに鳴き、アラニエの周りを跳ねながら回った。住処がひしめいているので、いつもよりも興奮しているようだ。
エルは馬ではない。ケナガウマである。ウマとは言いつつ風貌は山羊に近い。エルに限らず、全てのケナガウマは、荷馬に囲まれるているとまるで仔馬のように見える。
ケナガウマは、カラカスの人の生活に寄り添う動物である。
乳は乳児に与えることができるし、豊かな毛は艶があって美しく、とても暖かい。毎年杏の花が咲く頃に毛刈りをする。馬力があり、賢く、懐けばよく働く。人を乗せたまま崖を身軽に跳ね回ることができるので、アラタルタ山脈を行くには欠かせない。小柄なので、子どもでも世話をすることができる。
ただ、厳しい環境下に育つ獣だから、帰巣本能も従属性も薄く、よく馴らすには根気がいる。とにかく時間がかかる。生まれた子が一人で立つようになったら、ケナガウマの仔と共に育てよと教えにあるくらいだ。この特性から、陽国の言葉では伴侶馬と呼ぶらしい。
一人で立った時、とまではいかなかったが、アラニエも子どもの頃に仔馬をもらい受け、エルと名付けた。透き通るように繊細な巻き毛と、栗色の美しい瞳を持っており、垂れた耳が他のケナガウマよりも長く垂れているのが可愛いとアラニエは思っている。のケナガウマよりも長く垂れているのが可愛いとアラニエは思っている。
アラニエが手を握り、指の部分を下にしてみせると、エルは後ろ足二本でおもむろに立ち上がり、アラニエの指に鼻先で触れた。アラニエが手を開くとふかした芋が落ち、それを素早く食べた。
「よく馴れている」
と、チュリマスが褒めた。
「ありがとう。でも、お仕事はできないのよね、この子」
「試されましたか」
「試したわ。わざわざデミルに手伝って貰ったのよ。クザニス橋の向こうに立ってもらって……デミルなら、エルも懐いてるから。でも、駄目だったわ。首籠に蒸し芋を入れて、あっちよ、橋の向こうのデミルのところに持って行くのよって念押ししたら、いいお返事のあとに山の方に跳んでいってしまって、帰ってきたときには籠は空だったわ」
「それは、それは」
「いいのよ。もう、それはいいことにするわ。私の馬だからね。芋なんか、私が持って行けば良いんだわ」
チュリマスは否定もせず微笑んでくれた。つるぎとりの館で門番を勤めるこの壮年の女性は、腕はすこぶるたつのだが、アラニエに甘い。アラニエがついエルを甘やかしてしまうように。
エルは甘えん坊だけど、やっぱり時々は気まずいのかしら。アラニエは思うことがある。何の駆け引きもない愛情をただ受けるというのは、時々ばつが悪いものだ。
「次の満月、エルも連れてゆかれるのですか」
「もちろん」
アラニエは、ソガン帝国の属国であるマカンベリーの王子に嫁ぐことが決まっている。正式な輿入れは春だが、顔見せとして、近々マカンベリーを訪ねることになっていた。次の満月の日に、土産を持ってカラカスから旅立つ。道中、途中までではあるが、ルーカスの隊商が同行してくれることになっている。
「エルはね、草だったら何だって食べるの。松だって、柔らかければ露茨だって食べる。だから、向こうに行っても困らないんじゃないかしら」
「アンナが寂しがります。エルは一番良い友人でしたから」
アンナというのは、チュリマスのケナガウマだ。おっとりとした雌で、馴れているという言葉では片付かない、忠義心のようなものをチュリマスに対して持っているように思える。
「エルも寂しがるでしょうね。でも、アンナを連れていったら駄目よね。チュリマスの一番の忠臣だから」
「なら、このチュリマスもお連れ下さい。それなら問題は解決です」
まあ、とアラニエは微笑もうとしたが、チュリマスが案外真面目な顔をしているので、場違いな笑みは尻すぼみに消えた。
「腕がありますし、小柄ですので場所を取りません。女ですから、よからぬ噂も立ちません。自分から申し上げるのも何ですが、働き者です。孤独を感じるときには話し相手もおつとめ致しますし、男児女児共に子守も経験がございます。多少年をとってはおりますが、すこぶる健康ですからそこには目を瞑って頂いて……近習か未来の乳母として、姫様の側に置いて下さいませ」
「チュリマス」
「どうか」
顔見せとは言うものの、慣例としては、客という身分で滞在することになるだろう。婚姻の儀の時に、夫となる方と改めてアラタルタ山を訪ねることになると思われた。チュリマスの申し出は、その予測を含んでいる。
彼女はカラカス出身ではない。剣の技術を買われて他国から呼び寄せられ、カラカスの男と結婚し、この渓谷で子どもを二人産んだ。夫が病で亡くなった後、実子のベルルスを新たな門番として育てている。
「もう、ベルルスも独り立ちして良い頃。安心して私をお連れ下さい」
「チュリマス、ありがとう、……」
アラニエは言葉を選んだ。
「でも、兄様があなたを手放さないわ。兄様が手放さないというのは、カラカス族のみんながあなたを頼りにしているという事よ。私の勝手でそんなことはできないわ」
「アラニエ様、それはあなた様の本心ですか?」
「そうよ。あなたはここで、みんなを守って」
間があって、「そうですか」とチュリマスは微笑んだ。一瞬、深追いしてくれたら、とアラニエの心にほの暗い気持ちが差し込んだ。
チュリマスが同行してくれたら。
今おぼろげに感じている不安など全て払い飛ばせるだろう。だが……。
空を見て、チュリマスは少し眉をひそめた。
「この様子だと、午後には一雨来るかもしれません」
「やだ、神殿に杏を取りに行かなきゃ。ずっと干してるのよ、かびちゃう」
行こう、とでもいうように、白犬がわんと鳴いた。
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