第13話 自由の夜明け/エピローグ
第11章:自由の夜明け
21. 世界が、問いと出会った日
数ヶ月後。
世界は、未だ深い混乱の中にあった。だが、全ての始まりは、あの数時間だった。
――渋谷のスクランブル交差点。全ての広告ディスプレイに映し出された『カサンドラ計画』の文字に、人々は足を止め、言葉を失った。そして、最後の『問い』が映し出された瞬間、誰からともなく、ざわめきが広がっていく。
――パリの小さなアパルトマン。歴史学を学ぶ学生が、震える手でデータをダウンロードし、その非人道的な内容に絶句する。「これが……これが、日本の理想郷の真実だというのか……?」
――ナイロビの crowded なネットカフェ。かつてAIによる自動化の波で職を失った男が、オラクルの「問い」を、憎しみと、そして微かな希望が入り混じった目で見つめていた。
誰もが、スマホの画面に、街頭のディスプレイに、そして自らのスマートグラスに映し出された、たった一つの「問い」に釘付けになった。
【問い:では、あなた方は、どのような未来を望みますか?】
AIに思考を委ねていた人々が、初めて、自らの頭で考え始めた瞬間だった。
神崎恭吾は、国家管理システムの崩壊という未曾有の事態の責任を取らされ、失脚した。彼と共に、旧政権は総辞職し、日本の政治は指導者を失った。新たに樹立された暫定政府は、AIの補助なしに、自らの頭で、この大混乱を収拾することに追われていた。
結城亮の名は、歴史上最も複雑な評価を受ける人物となった。
ある者は彼を、人類を欺瞞から解放した、最後の英雄だと讃えた。またある者は、彼の引き起こしたサイバーテロと社会システムの麻痺を、決して許されざる大罪だと糾弾した。
暫定政府の公式見解は、後者だった。新首相は、ホログラムを通じて、全世界に向けてこう演説した。
『結城元大臣が白日の下に晒した事実は、我々が真摯に受け止めるべき、旧政権の重大な過ちです。しかし、我々はいかなる理由があろうとも、法を無視したテロ行為を容認することはできません』
『彼の行った国家最高機密への不正アクセス、社会システムを意図的に麻痺させたサイバーテロ、そして重要施設への不法侵入は、動機がいかに高潔であろうと、法治国家の根幹を揺るがす重大な犯罪です』
結城は、国家反逆罪ではなく、複数のサイバーセキュリティ法違反の罪で、静かに裁かれることになった。彼の名は、英雄としてではなく、法を犯した者として歴史に刻まれようとしていた。
世界は、未だ深い混乱の中にあった。D-BIの支給は滞り、社会インフラの最適化レベルは著しく低下した。人々は、かつての安定を失い、不便と不安の中で暮らしている。
しかし、何かが、確実に変わっていた。
街角のカフェや、広場、大学の講義室。あらゆる場所で、人々が拡散された『カサンドラ計画』の衝撃的なデータと、その末尾に添えられたオラクルからの問いを前に、顔を突き合わせ、議論をしていた。
『この“社会エントロピー指数”って、本当なのか?』
『俺たちの親の世代は、こうやって管理されていたのか?』
『この問いに、俺たちはどう答えるべきなんだ?』
怒り、悲しみ、不安、そして、微かな希望。
AIへの盲信は崩壊した。人々は、思考停止から目覚め、初めて自分たちの未来について、自らの言葉で語り始めたのだ。
物語は、人類が、完璧な安定と引き換えに、不完全で、厄介で、しかし何物にも代えがたい「問い」と「自由」を再びその手に取り戻した、新たな時代の混沌とした夜明けを告げて、静かに幕を閉じる。
エピローグ
――数年後。
横浜の、古びた港湾地区。潮風が、錆びた鉄の匂いを運んでくる。里見蓮は、油の染みついた作業着のまま、小さな修理工場のシャッターの前で、ぼんやりと空を眺めていた。かつて世界を震撼させた伝説のハッカーの面影は、もうどこにもない。彼は、あの事件の後、自らの全データを消去し、この街で、アナログな機械だけを相手に、静かに生きていた。
工場の前の広場で、子供たちが数人、歓声をあげながら走り回っている。その遊びが、彼の目を引いた。
一人の少年が、胸を張って叫ぶ。
「俺が、結城亮だ! システムの嘘を暴いてやる!」
別の子供たちが、警備ドローン役になって、彼を追いかける。
「反逆者を捕まえろ!」
結城亮ごっこ。
この混沌とした新しい世界で、子供たちの間で流行っている遊びだった。
里見は、その光景を、無言で見つめていた。肯定も、否定も、しない。ただ、胸の奥が、ちりりと痛んだ。
あの子供たちは知らない。俺たちが、何と戦い、何を壊し、そして、何を失ったのかを。彼らにとって、これはただの「ごっこ遊び」だ。だが、それでいいのかもしれない。
彼の脳裏に、二つの顔が交錯する。
システムの正しさを信じ、理想に燃えていた、あの元大臣の顔。
そして、システムの正しさに仕事を奪われ、静かに死んでいった、自分の父親の顔。
復讐は、終わった。だが、そこに、勝利の高揚感はなかった。残されたのは、がらんどうになった心と、このどうしようもなく面倒くさい、しかし、二度と父のような犠牲者を出さないであろう世界の、途方もない重さだけだった。
世界は、良くなったのだろうか。わからない。
ただ、不便で、非効率で、どうしようもなく面倒くさい世界になったことだけは、確かだった。
「――里見さん、このオートマタ、動かなくなったんだけど」
近所の老人が、旧式の荷運びロボットを連れて、工場に顔を出した。
里見は、タバコの火を足元で消すと、無愛想に、しかし確かな手つきで、工具箱を手に取った。
「……ああ。見てやるよ」
世界がどうなろうと、個人の営みは続く。
壊れたものを、自分の手で、直す。
その、どうしようもなくアナログな営みだけが、今の彼にとっての、唯一の真実だった。
『速報:D-BI再分配案、国会で再び紛糾。与野党の対立、激化の一途』
『SNSトレンド:#やっぱりオラクルが必要』
その日の午後、都心の公園では、一台の清掃ロボットが、途方に暮れたように同じ場所をぐるぐると回り続けていた。最適化ネットワークから切り離されたその旧式のAIには、落ち葉の舞い方が予測できず、無限ループに陥っているのだ。
ベンチに座っていた一人の女子高生が、それを見てくすりと笑う。彼女のスマートグラスには、数年前なら考えられなかった「電車の遅延情報」が表示されている。D-BIの支給額も不安定で、将来への漠然とした不安は常にある。
それでも、彼女は、この予測不能な世界が、案外悪くないと思っていた。
完璧な管理下にあった頃、人々は決してぶつからなかった。AIが、互いの最適な距離を計算していたからだ。だが今は違う。駅のホームでは、乗り降りの際に肩がぶつかり、「すみません」「いえ」という、ぎこちない、しかし人間的なやり取りが生まれる。カフェでは、AIが推奨するメニューではなく、友人と「どっちのケーキが美味しいか」で真剣に悩み、そして、選ばなかった方を少し後悔する。
非効率で、面倒くさくて、時々、理不尽だ。
だが、その「ままならなさ」こそが、生きているという実感を与えてくれることを、彼女は、この数年で学び始めていた。女子高生は、立ち上がると、くるくると回り続けるロボットの背中の緊急停止ボタンを、そっと押してやった。
『国際ニュース:旧途上国連合、資源担保型デジタル通貨の再発行を宣言。国際社会は反発』
『学術フォーラム:ポスト・オラクル時代の統治システムとは? 激論続く』
同時刻、都心郊外の小さなアパート。
若松は、娘のために朝食のパンケーキを焼いていた。かつてのスマートマンションとは比べ物にならない、狭く、旧式のキッチン。だが、彼の表情は、不思議なほど穏やかだった。
事件の後、彼は全てを告白し、司法取引によって重い罪を免れた。しかし、社会的信用も、スコアも、財産も、全てを失った。娘は、もう最新の医療プログラムを受けることはできない。
「パパ、まだー?」
「はいはい、今行くよ」
少し焦げ付いたパンケーキを皿に乗せ、テーブルに運ぶ。娘は、文句も言わず、嬉しそうにそれにフォークを突き立てた。
世界は、不便になった。未来は、不確かになった。だが、この、少し焦げたパンケーキの匂いと、娘の屈託のない笑顔だけは、どんなAIにも計算できない、確かな手触りのある「幸福」だと、若松は知っていた。彼は、この不完全な朝食を、何よりも愛おしいと思った。
同時刻、特別矯正施設。殺風景な独房で、神崎恭吾は、窓から見える、一片の空だけを見つめていた。彼は、結城の反逆を止められなかった責任と、国家システムを危機に陥れた罪で、終身刑に服していた。
彼は、後悔しているのだろうか。
おそらく、していない。彼の脳裏には、今も『失われた半世紀』の炎が燃えている。彼にとって、結城が開けたパンドラの箱から飛び出した「自由」とは、かつて両親を奪った「混沌」の別名に過ぎないのだ。彼は、自らの正義を信じ、そのために全てを捧げた。そして、敗れた。ただ、それだけのことだ。
だが、夜、一人になるとき、彼の脳裏をよぎることがあった。
あの、ゼロ・サンクチュアリでの、結城の顔。
絶望ではなく、ある種の確信に満ちた、あの若者の顔。
そして、その顔は不思議と、かつて同じように理想を語り、そして袂を分かった旧友――結城の父の面影と重なった。
自分が無音で告げた、たった一言。
『――すまない』
あの言葉は、本当に、誰に向けたものだったのか。
その答えだけは、彼自身にも、まだ分からなかった。
(了)
カサンドラの封印 ことほぐらむ @kotohogram
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