第12話 ゼロ・サンクチュアリ

第10章:ゼロ・サンクチュアリ

17. 最後の道

 「……ここから先は、あんた一人で行け」


 分厚い隔壁の前で、里見は、そう言った。彼の肩は、激しい消耗で、わずかに上下していた。量子暗号回廊との格闘は、彼の精神を極限まで削り取っていた。


 「ゼロ・サンクチュアリは、物理的に完全に隔離されてる。俺のハッキングは、もう役に立たねえ。……それに、俺が行っても、意味がねえからな」


 その声には、いつもの皮肉とは違う、どこか複雑な響きが混じっていた。それは、諦めにも似ていたし、あるいは、自分には果たせない役目を託す、ある種の敬意にも聞こえた。


 「……里見君」


 結城は、彼の目を見た。そこには、憎悪だけでなく、ある種の信頼にも似た感情が、微かに宿っているように見えた。


 「……すまない。そして、ありがとう」


 それは、結城の心からの言葉だった。


 「……フン。礼を言われる筋合いはねえよ」


 里見は、そっぽを向いたまま、コンソールに何かを打ち込み始めた。おそらく、陽動のためのDDoS攻撃の最終準備だろう。


 「……さっさと行け。エリスが稼げる時間は、もういくらも残ってねえぞ」


 里見は、ディスプレイから目を離さずに言った。そして、最後に、ほとんど聞こえないほどの、小さな声で付け加えた。


 「……死ぬんじゃねえぞ、元大臣サマ」


 結城は、力強く頷くと、一人、闇の中へと足を踏み入れた。


 隔壁が、背後で重い音を立てて閉じる。完全に、一人になった。通路のセンサーが彼を認識し、足元に、青白い誘導灯が、まるで彼を誘うかのように、奥へ奥へと点灯していく。


 まるで、地獄への花道のように。


 彼の心臓の鼓動だけが、この絶対的な静寂の中で、不規則に響いていた。一歩進むごとに、これまでの全てが、脳裏を駆け巡る。光の中で演説していた自分。神崎の冷たい指先。エリスの悲しい瞳。若松の苦悩。そして、里見の背中。自分は、彼ら全ての想いを背負って、今、ここに立っている。


 通路の壁は、鏡のように磨き上げられた金属でできていた。そこに映る自分の顔は、恐怖と決意が入り混じった、見たこともない表情をしていた。これは、本当に自分なのか? システムの正しさを信じて疑わなかった、あの男と同一人物なのか?


 恐怖がないと言えば、嘘になる。死ぬことよりも、自分の選択が、この世界を『失われた半世紀』の混沌へと逆戻りさせてしまうことの方が、遥かに恐ろしかった。神崎の言う通り、自分はただ、世界を破壊するだけの、愚かな理想主義者なのかもしれない。


 だが、それでも、進まなければならない。


 父のために。そして、父と同じように、声もなく消されていく、無数のモータルズのために。何よりも、偽りの楽園で、純粋な笑顔を浮かべていた、あの老人を、嘘にしたくないために。


 結城は、強く拳を握りしめた。


 通路の先、巨大な円形の扉が見えてきた。


 ゼロ・サンクチュアリ。


 怪物の、心臓部だ。

18. 守護者との対峙

 通路を抜けた先。


 そこに、ゼロ・サンクチュアリはあった。


 結城は、その非現実的な光景に、一瞬、呼吸を忘れた。そこは、部屋というより、一つの宇宙だった。完全な球体の空間。壁も、床も、天井も存在しない。ドーム状の空間全体に、宇宙の星々が、寸分の狂いもない正確さでホログラムとして映し出され、まるで神殿のような荘厳さを醸し出している。空気は、ひやりと冷たく、清浄で、まるで人間の存在を許さないかのように、絶対的な静寂が支配していた。


 その宇宙の中心に、オラクルのコアユニットが、黒曜石のように滑らかな巨大な球体として、静かに鎮座している。それは、まるで意思を持たない神のように、そこに「在る」だけで、圧倒的な存在感を放っていた。その表面を、無数の青い光が、まるで生命の脈動のように、ゆっくりと流れていた。


 結城が、その非現実的な光景に圧倒されていた、その時。空間に、ノイズと共に、巨大なホログラムが浮かび上がった。官房長官室の重厚な革張りの椅子に深く身を沈めた、神崎恭吾の姿だった。


 「……やはり、来たか、結城君」


 スピーカーから響く声は、穏やかだった。まるで、遅れてきた教え子を、諭す教師のように。だが、その声には、一切の感情が乗っていなかった。


 「……なぜ、俺がここにいると」


 結城の声は、ほとんど音にならなかった。この絶対的な静寂の中では、人間の声は、あまりにも無力だった。


 「君が信じる、非合理な人間の感情や、正義感など、究極の合理性の前では、ただの予測可能な変数に過ぎんのだよ。君の行動パターン、君の心理、君の信じる正義の形……その全てを、オラクルは、君が生まれる前から知っていた」


 神崎は、ゆっくりと、結城に歩み寄ってくる。そのホログラムの足音は、もちろんしない。だが、結城には、彼の存在が、物理的な圧力となって、自分に迫ってくるように感じられた。


 「……今からでも、遅くはない。そのキーを、私に渡しなさい。そして、この世界の真の姿を知り、我々と共に、それを管理する側に来るがいい。君が信じた『理想』の、本当の意味を教えてやろう。君は、羊の群れを導く、羊飼いになるべき人間だ。羊の群れの中にいてはならん」


 それは、悪魔の、甘い囁きだった。


 結城は、何も答えなかった。ただ、目の前の、穏やかな表情を浮かべた神崎のホログラムと、その背後で脈動する、巨大なオラクルのコアユニットを、交互に見つめた。


 一瞬、彼の心に迷いが生まれる。本当に、自分は正しいことをしているのか? この男の言う通り、自分はただ、世界を混沌に陥れるだけの、愚かな理想主義者ではないのか? 『失われた半世紀』の、あの地獄を、自分の手で再現してしまうというのか?


 脳裏に、虐げられてきた人々の顔が浮かんだ。父の無念そうな顔、里見の怒りに満ちた顔、そして、全てを託してくれたエリスの顔。


 彼らは、羊ではなかった。


 不器用で、不完全で、しかし、確かな意志を持った、人間だった。


 結城は、ゆっくりと首を横に振った。その動きは、もはや迷いのない、確固たる意志の表れだった。


 「……俺は、あんたの創った、偽りの楽園を、破壊する」


 「……そうか」


 神崎のホログラムの目から、最後の慈悲の色が消えた。その表情は、もはや教師ではなく、秩序を乱す害虫を駆除する、冷徹な管理者のそれに変わっていた。


 「……残念だよ、結城君。君は、最高の弟子だったのだがな」


 神崎が、指を鳴らす。


 その瞬間、ゼロ・サンクチュアリの滑らかな壁面が、音もなくスライドし、その奥から、複数の警備ドローンが、赤い単眼の光を灯しながら、無音で滑り出してきた。それは、まるで巨大な昆虫のような、機能美と残虐性を兼ね備えたフォルムをしていた。彼らは、一切の警告を発することなく、ただ、結城という「エラー」を排除するためだけに、彼に襲いかかってきた。

19. 最後の引き金

 絶体絶命。


 だが、結城は、諦めていなかった。


 彼は、懐から、一つのデバイスを取り出した。エリスが、若松からの情報を元に、ジャンク屋から調達してくれた、高出力のEMP(電磁パルス)発生装置だ。


 「――やれ、若松君!」


 結城が叫ぶと同時に、EMPが作動した。


 強烈な電磁パルスが、ゼロ・サンクチュアリを駆け巡り、警備ドローンが、火花を散らしながら、次々と機能を停止し、床に墜落していく。


 ホログラムの向こうで、神崎の普段は動じない表情が僅かに歪み、その瞳が見開かれた。彼の計算を超えた、人間の絆という「変数」が、彼の計画を打ち破ったのだ。


 「無駄だと言ったはずだ、結城君!」


 神崎の声が、スピーカーから怒りとなって響く。彼の遠隔操作で、結城とコアユニットの間に、分厚い防弾ガラスの壁が、音もなくせり上がってきた。


 しかし、結城はその一瞬の隙を突き、オラクルのコアユニットへと、最後の力を振り絞って走った。ガラス壁が完全に閉じる前に、彼はその内側へと滑り込む。


 コアユニットの側面にある、小さな、アナログのポート。まるで、巨大な機械の、唯一の人間的な部分のように見えた。


 結城は、エリスから託された、アナログ・キーを、そこに突き刺した。


 【最終プロトコル、認識。……実行します】


 オラクルの、感情のない合成音声が、静かに響き渡る。


 だが、何も起こらない。カサンドラのデータは、依然として固く閉ざされたままだ。それどころか、コアユニットの青い光が、一斉に警告の赤へと変わった。


 『――自己矛盾を検出。プロトコルを凍結します。実行者による、最終認証が必要です』


 スピーカーから響く神崎の、嘲笑うかのような声。


 「無駄だと言ったはずだ、結城君! オラクルは、自らを破壊するような非合理な命令を、そのまま実行したりはせん。これは、論理の罠だ。お前には、決して解けんよ」


 絶望的な状況。だが、その時、結城の脳内に、あの直感が、これまでで最も鮮明な「声」となって響いた。


 ――違う。これは、罠じゃない。問いだ。


 ――お前は、何を望む? 完璧な秩序か、不完全な自由か。


 それは、オラクル自身の、声なき問いだった。結城は、全てを悟った。この最終認証は、論理や計算では答えられない。人間の「意志」を問うているのだ。


 脳裏を、父が遺したメールの、途切れた一文がよぎる。『――亮を、頼む』。父は、何を頼もうとしたのか。システムの破壊か。世界の救済か。違う。きっと、父はただ、息子に「お前自身の意志で、未来を選んでくれ」と、そう言いたかったのではないか。


 結城は、アナログ・キーを握りしめ、コアユニットに向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。


 「……俺は、選ぶ。間違うかもしれない。混沌を招くかもしれない。それでも、俺たち自身の不完全な手で、未来を選ぶ自由を!」


 その言葉に、オラクルが応えた。


 絶対的な静寂の中、コアユニットの赤い警告光が、ふっと消えた。そして次の瞬間、黒曜石の球体から、**白く、柔らかな光が、まるで吐息のように、ゆっくりと空間に満ちていく。**それは、これまで見てきたどんな人工的な光とも違う、どこか温かみと、そして生命の息吹さえ感じさせる、慈愛に満ちた光だった。


 ドーム状の天井に映し出されていた冷たい星々のホログラムが、穏やかに溶け合い、まるで夜明けの空のような、淡い黎明色へと変わっていく。


 【……承認。最終プロトコルを、再開します】


 オラクルの合成音声は、もはや機械的なそれではなく、どこか人間の声に近い、柔らかな響きを帯びていた。


 その瞬間、プロジェクト・カサンドラの、全てのデータが、暗号化を解かれ、全世界の、あらゆるネットワークへと、洪水の如く拡散を開始した。


 テレビも、ネットも、街頭のディスプレイも、全ての画面が、一瞬にして、カサンドラの、おぞましい真実を映し出す。


 エターナルズと、モータルズ。


 管理された生と、計画された死。


 偽りの楽園の、本当の姿。


 「……やめろ……やめろぉぉぉっ!!」


 スピーカーから響く神崎の声は、もはや怒りではなく、ガラスを鋭く引っ掻くような音に近かった。


 だが、もう、誰にも止められない。


 パンドラの箱は、開かれたのだ。


 オラクルのコアユニットの光が、不規則に明滅を始め、やがて、力なく消えていく。


 ――かに見えた。


 絶対的な静寂がゼロ・サンクチュアリを支配した、その数秒後。消えたはずのコアユニットが、再び、しかし今度は 白く、穏やかな光 を放ち始めた。そして、全世界のネットワークに拡散されたカサンドラのデータ、その全ての表示の末尾に、たった一行の、新たなテキストが追加された。


 【問い:では、あなた方は、どのような未来を望みますか?】

20. 勝者と敗者

 重装備の治安部隊が、雪崩を打って中枢区画に突入してきた。


 彼らは、コンソールの前で力なく立ち尽くす結城を、素早く、そして無言で取り押さえた。結城は、一切の抵抗をしなかった。彼の役目は、もう終わったのだ。


 警備員に両脇を固められ、連行されていく。その途中、彼は、官邸の巨大スクリーンに映し出された、神崎の姿を見た。


 神崎の肩は落ち、その顔には深い皺が刻まれ、まるで十歳も年老いたかのようだった。その目は、結城を憎悪でもなく、怒りでもなく、ただ深い、深い哀れみの色で見つめていた。スクリーン越しの神崎の唇が、ほとんど音にならずに動いたのを、結城は見逃さなかった。


 『――すまない』


 それが、誰に向けられた言葉だったのか。自らが育てた理想主義者を、自らの手で断罪しなければならなかったことへの謝罪か。あるいは、かつて同じ理想を夢見た、若き日の自分自身への訣別の言葉だったのか。


 結城には、もう知る由もなかった。


 スクリーンの中の神崎は、すぐにいつもの冷徹な仮面を取り戻すと、カメラの向こうの結城に、こう言い放った。


 「……君は、パンドラの箱を開けたのだ、結城君。我々が、未来永劫、人類のために封印し続けてきた、最後の希望を……」

20.5 砕かれた神殿

 官房長官室。


 全てのディスプレイに、カサンドラのデータが洪水のように流れ続けている。部下たちの怒号や悲鳴が、まるで遠い世界の音のように聞こえる。神崎は、椅子に深く身を沈めたまま、動かなかった。


 彼の頭の中では、音がしていた。彼が人生の全てを賭けて築き上げた、完璧で、静謐で、美しい論理の神殿が、ガラガラと、根底から崩れ落ちていく音。


 なぜだ。私の計算は、完璧だったはずだ。


 なぜ、あの小僧の、感情的な、非合理な、ただの「意志」ごときに、私の世界は破壊されなければならなかったのだ。


 理解できない。認めることができない。だが、事実は目の前にある。


 彼は、ゆっくりと目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、『失われた半世紀』の炎と、両親の最後の姿。そして、あの地獄を二度と繰り返さないと誓った、若き日の自分の顔。


 ……俺は、間違っていたとでも言うのか。この国を、世界を、混沌から守ろうとした、この俺が……。


 治安部隊が部屋に突入してくる。その時、神崎の口から、自分でも意識しないうちに、乾いた言葉が漏れた。


 「……ああ。静かだ」


 それは、世界が終わる音だった。

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