第11話 潜入

第9章:潜入

15. 地下迷宮

 国立国会図書館。


 地上部分は、静寂そのものだった。柔らかな自然光が吹き抜けから差し込み、古書の匂いがかすかに漂う、知性の殿堂。そこでは、学生や研究者たちが、スコアに関係なく、平等に知識へとアクセスしている。結城が信じてきた、理想郷の一つの完成形がそこにあった。大臣として、彼は何度もこの場所を訪れたことがある。だが、今日、彼が目指すのは、その光の当たる場所とは真逆の、国家の深淵へと続く入り口だった。


 結城と里見は、若松が命懸けで手に入れた偽のIDを使い、メンテナンス業者を装って、地下駐車場の一番奥にある、目立たないサービス用ハッチの前に立っていた。壁と同じ色に塗装された、無機質な金属の扉。ここが、オラクルの聖域へと続く、最初の関門だ。


 「……ここから先は、別世界だ。覚悟はいいな、元大臣サマ」


 里見が、低く囁く。彼の吐く息が、冷たいコンクリートの空気中で白く見えた。


 結城は、無言で頷いた。心臓が、肋骨を叩く音が、やけに大きく聞こえる。この扉の向こう側は、自分が今まで生きてきた世界とは、物理的にも、そして概念的にも、完全に断絶されている。


 若松から受け取ったセキュリティカードを、認証パネルにかざす。ピッ、という短い電子音と共に、重々しいロックが外れる音が響いた。第一の壁、生体認証ゲートだ。虹彩、静脈、声紋。三重のチェックが、数秒のうちに行われる。認証センサーの無機質な青い光が、二人の緊張した面持ちを照らし出した。


 【認証完了。アクセスを許可します】


 重いハッチが、圧縮された空気の抜ける音と共に、ゆっくりと内側に開いていく。現れたのは、下へと続く、急な金属の階段だった。


 二人は、顔を見合わせ、同時に頷くと、その闇の中へと足を踏み入れた。


 階段を降りきると、そこは、巨大な地下迷宮の入り口だった。ひやりと湿った空気が、肌を撫でる。どこまでも続く、冷たい金属の回廊。壁には、無数の太いケーブルが、まるで巨大な生物の血管のように張り巡らされている。空気は、サーバーの冷却液と、古いコンクリートの埃が混じり合った、独特の匂いに満ちていた。数メートルおきに設置された非常灯だけが、ぼんやりと通路を照らしている。


 「……国家の、内臓ってわけか」結城が、思わず呟いた。


 「内臓なんてもんじゃねえよ」里見が、壁のケーブルを指差した。「これは、神経系だ。この国に生きる、全ての人間を操るためのな。あんたが、今までその中枢で安穏と暮らしてきた、そのシステムの」


 里見の言葉には、棘があった。だが、結城は、それを否定できなかった。


 彼らの足音だけが、静かな回廊に響き渡る。時折、頭上の配管から滴り落ちる水滴の音が、不気味なほど大きく聞こえた。


 ここからは、時間との戦いだった。エリスの陽動が、いつまで持つかわからない。神崎が、この侵入にいつ気づくか。全ての不確定要素が、彼らの命運を握っていた。

16. 量子回廊の悪魔

 「……来たぜ、第二の壁。量子暗号回廊だ」


 里見が、壁に埋め込まれたコンソールに、自らのポータブルデバイスを接続した。彼の目の前の空間に、常人には理解不能な、赤と青の光で構成された、複雑な量子アルゴリズムの壁が、立体的に立ち塞がる。それは、単なるデータの壁ではなかった。生きているかのように、絶えずその形を変え、侵入者を威嚇し、そして嘲笑うかのように、美しく、そして冷たく輝いていた。


 「……エリスの言った通り、バックドアは生きてる。だが、こいつを開けるには、リアルタイムで変動する、このクソみたいなパズルを解かなきゃならねえ」


 里見の指が、目にも留まらぬ速さで、仮想キーボードの上を踊り始めた。彼の内面では、父を死に追いやったこの巨大なシステムへの憎悪と、目の前の超難解なパズルを解き明かすことへの、ハッカーとしての純粋な興奮が、激しくぶつかり合っていた。


 結城は、ただ、固唾を飲んで、彼の背中を見守ることしかできなかった。自分は、無力だ。この男の、常軌を逸した才能がなければ、自分は、ここまで来ることさえできなかった。その無力感が、彼のプライドを苛む。だが、今はそんな感情に浸っている場合ではない。彼は、自分の役割を果たすことだけに、意識を集中させた。


 「……チッ、面倒なことをしやがる!」


 里見の額に、玉のような汗が滲む。アルゴリズムの壁――オラクルの防御AIは、彼の侵入を察知し、防御パターンを変化させたのだ。それは、まるで知性を持った獣だった。里見が論理の隙間をこじ開けようとすると、壁はその部分を瞬時に硬化させ、別の場所に新たな脆弱性をわざと見せびらかす。それは、罠だった。誘い込まれたハッカーの思考を読み取り、そのリソースを無駄遣いさせ、精神を消耗させるための、悪魔的なアルゴリズム。


 「……こいつ、俺の思考パターンを学習してやがる……!」


 里見は、歯を食いしばった。だが、その目は、まるで獲物を前にした獣のように、爛々と輝いていた。恐怖ではない。歓喜だ。これほどまでに、自分を本気にさせる「敵」に、彼は初めて出会ったのだ。


 「……面白いじゃねえか、オラクル。お前が神様だってんなら、俺が、そのツラを引きずり下ろしてやるよ」


 彼は、攻撃のパターンを変えた。定石を無視し、セオリーを破壊する。まるで、狂ったように、無意味なコマンドを連打したかと思えば、次の瞬間には、神がかり的な精度で、システムの最も深い核を突く。それは、AIには予測不可能な、人間の「非合理性」と「直感」そのものだった。


 赤い光の壁が、一瞬、怯んだように揺らめいた。


 好機。


 里見の指が、加速する。彼の意識は、もはやこの地下迷宮にはない。


 脳裏をよぎるのは、父の最後の姿だった。AIに仕事を奪われ、スコアを失い、生きる気力さえも失って、ただ静かに死んでいった、あの無力な背中。父は、ただ真面目に、誠実に、自分の仕事を愛していただけだった。それなのに、システムは、父を「非効率」というたった一言で切り捨てた。


 許せるはずがなかった。


 この一撃は、俺だけのものじゃない。親父の、無念の叫びだ。


 里見の全存在が、一つのコマンドに収束する。それは、憎悪と、悲しみと、そして、父への愛を込めた、彼の生涯最高の、そして最後のハッキングだった。


 けたたましい警告音と共に、赤い壁の格子が、一つ、また一つと、青い光に変わっていく。悪魔が、ついに悲鳴を上げたのだ。


 「……開いたぜ」


 里見が、短く、そして勝利を確信した声で呟いた。


 目の前の、分厚い隔壁が、静かに、そしてゆっくりと、その口を開けていく。


 その先は、闇だった。


 全ての光を飲み込むような、絶対的な暗黒。オラクルの心臓部へと続く、最後の道。

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