神奈川県藤沢市 江ノ島基地

   Ⅰ


 ここは江ノ島基地内、霧島沿岸駆逐社の更衣室であった。2031年3月7日の事である。

 中島は焦りながら服を着替える。入社したての彼に、いきなり出撃が命じられたからだ。彼は北海道の訓練所を卒業して、まだ数日しか経っていなかった。

 中島はトレーナーとジーパンを脱ぎ去り、難燃繊維で出来たパイロットスーツに袖を通す。そしてガス膨張式の救命胴衣を首から通して、足元もコンバットブーツに履き替える。ブーツの底には社長に言われた通り、自分の名前を白いペンで書きこむ。

 ポケットには、着替える前に社長から渡された、ビニール袋を押し込んだ。社長曰く、このビニール袋は「絶対に必要になるから」と、念を押して渡されたものだ。

 中島は忘れ物がないかを確認したが、全てに問題はなかった。中島は最後に、両手を上げて体を伸ばした。

「こんなに早く桜さんに会えるなんて、幸先がいいな」

 霧島桜。ようやく十七歳になった彼女は、清楚なイメージと端正な顔立ちにより、業界のみならず世間の男性にもその名が良く知られている。そのせいか、沿岸駆逐組合の広報誌や、雑誌などのメディア露出も多く、実際に私設ファンクラブなども存在していた。

 中島がこの霧島沿岸駆逐社に就職したのは、とにもかくにも憧れの先輩、霧島桜に会いたかったからだ。それ以外には、昔住んでいた場所に近いというのもある。


 中島はヘルメットを持って更衣室のドアを開けた。すると眼前には社長、霧島治雄が、彼を今か今かと待ち構えていた。

 社長は身長百九十センチの巨漢で、体も徹底的に鍛え上げられており、百六十センチしかない中島からしてみれば、目の前に突然壁が現われたような心境であった。

「急な出撃だが、とにかく船長の言う事を聞いていれば問題ない。まあ船長が色々とアレなんだけど、気にするな」

 社長が苦い顔をして中島に話をする。中島は社長の顔を見る。

「社長すいません、アレってどういう意味ですか?」

 中島は、社長が使う微妙な表現に反応した。普通、実の娘にアレという表現はあまり使わない。余程の事がなければ。

「まあ会ってみれば分かるさ。あいつ顔は可愛いんだが、中身は見た目とかなり違うから。幻滅するなよ、少年」

 社長はまるで、中島を子供扱いするように頭をグリグリと撫でた。中島は社長の言わんとする所に最大の不安を感じながらも、さりとて時間がないのでこれ以上の質問を止める事にした。それは会ってみれば分かる事だからだ。

 社長はおもむろに彼の片腕をつかんで、基地ビルから外に出る。表では緊急発進を告げる警報音と、駆逐船が放つ特徴的なガスタービンエンジンの音が轟音を奏でていた。

 彼らは外に出た時、一瞬『ブルッ』と震えた。彼らの頭上からは雪がチラチラと舞い降りていた。

「桜、もうエンジンスタートしたな。せっかちな所は誰に似たんだか。中島くん、ちょっと急ぐぞ」

 社長は中島の返答を待たず、彼の体をひょいと持ち上げ、軽々と肩に担いで走り出した。まるで宅配便の荷物のように。


 基地ビルに隣接している埠頭には、【疾風】を始めとする駆逐船が何隻も停泊していた。形式は大半が前モデルである二一式であったが、一部には新型である二八式の姿も見えた。これらの駆逐船は高速艇らしい細長い船体ではあるが、船の全体に駆逐船のトレードマークである、リアクティブアーマーが貼り付けられており、高速船でありながら戦車のような趣きも兼ね備えていた。


 霧島沿岸駆逐社には、三隻の二八式駆逐船が配備されている。しかし一番船の【鐘馗】は出撃中、二番船の【飛燕】はエンジン不良で、造船所にドック入りしていた。

 その為、定期検査に入る準備をしていた三番船、【疾風】が急遽待機任務についていた。この状況ならば任務を他社に任せたい所であるが、他の駆逐船も整備しているか出動しているという状況であった。


 社長は中島を担いだまま埠頭に来ると、停泊している【疾風】から怒声が飛んできた。それはまだ女の子と言っていい女性が、【疾風】の甲板から二人を呼んでいたのだ。彼女、霧島桜こそ、実の父親ですらアレ呼ばわりする、三番船【疾風】船長であった。

 周囲は駆逐船のエンジン音で、大声を出さなければ会話も出来ない。

「桜、遅れてすまん!」

 社長は中島を地面に下ろす。中島はお腹を抑えながら、ケホケホと咳をする。

「二人とも遅い! 漁船が襲われてるんだ! 早く乗船しろ!」

 桜の怒声には焦りが感じられた。それでも女の子特有の、甘い声であるのが隠せない。

「えっ、この声は!」

 中島はその声に気づき、まだ収まらない腹部の痛みに苦しみながらも、その顔を見上げた。そして彼の目には、怒声を張り上げる『憧れの女性』が写った。しかし彼の動きは静止した――あれは僕の大好きな桜さんじゃない――と。

「桜、そう怒らんでくれ。彼が新入社員の中島くんだ。よろしく面倒見てやってくれ」

 社長もまた、エンジン音に負けないように大声を出す。中島は、まだ現実逃避している最中であった――あれは多分、桜さんに良く似ている人だ――と。

「中島くん……大丈夫か?」

 社長は現実逃避している中島を、無理やり揺さぶって正気に戻そうとする。

「あ、はい、大丈夫です、本物の桜さんに会えるまで頑張ります!」

 中島はまだ現実逃避していた。社長は「最初から毒が効き過ぎたか」と頭を抱えた。

「中島、行くぞ」

 まだ妄想から醒めやらない中島を、桜は脇に腕を通してグイグイ連行する。

「これは何だろう?」

 中島は肘に当たる、桜の柔らかい胸の感触に気付いた。中島は本能的に肘を「くいくい」と動かす事で、その感触を味わう。そして桜の胸は本人の意志とは関係なく『ゆさゆさ』とそれに答えた。中島は思った――この胸だけは、本物の桜さんである――と。

 桜はその肘の動きを見る。

「な、中島。こっ、殺されたいのか!」

「いたたたた」

 桜の目は殺意に満ちていた。そして中島の腕を振りほどき、代わりに顔面をガッチリと五指でつかんだ。その後は中島の苦痛を一切考慮せず、そのまま、ぐいぐいと船内へ引っ張っていった。

「中島! 早く席につけ! シートベルトをキッチリ閉めろ! ヘルメットもとっとと被れ!」

 桜は中島をシートへと押し込んだ。中島は顔面の痛みを我慢しつつ、右側のシートへ着席した。右側のシートは航法士席で、左側が砲術士席、真ん中少し後方が船を操縦する船長席である。

 中島が席についた時、砲術士席に座る老人、山本が中島に話しかける。

「若いんじゃ、オッパイ好きは当然じゃ」

 山本が中島に向けて親指を立てる。ここに理解者が一人。

「ジィちゃん……新米にエロはいりません」

 桜の声に山本は知らぬ振りをする。

 桜は溜息をつきながら自分も船長席に座り、【疾風】はせっかちに微速前進を開始した。

「中島、港を出たら目的地まで全力で向かう。お前は水平線レーダーと赤外線センサーを使って、周りに船や障害物がいないか捜索しろ。訓練所で習った通り、やれるな?」

 桜は前を見たまま中島に命令する。その声は明らかに……殺意が。

「りょ、了解です」

 中島は初出撃で緊張していた。

 普通、中島のように三年制の訓練所を卒業した人間でも、入社後、いきなり実任務にはつかない。実際には入社以降、同僚と何度もシミュレーターで訓練し、何度か訓練乗務を行った後、実際の任務につく。それが入社していきなり実戦ならば、彼が緊張するのも無理からぬ事であった。

 【疾風】は、中島の緊張を無視して微速前進を続けており、一分も経たない内に港のゲート前にやって来た。

 目の前には全高二十メートルの、コンクリートで出来た防護壁がそそり立っている。この壁は約二十年前の怪物逃走事件以来、世界の沿岸部至る所で建設され、日本でも人口密集地の沿岸部には必ず建設されている。

「こちら【疾風】船長、発進位置に到着しました」

〈指揮所より【疾風】へ、内部ゲートを開放します〉

 無線が入る。そして壁が中心を境に、観音開きで左右に広がっていく。【疾風】は、ゲートが十分に開いた所で中間ロックに進入し、再び停船する。この内側ゲートと外側ゲートの間は、一般的に中間ロックと呼ばれている。中間ロックは、天井を除いて四方がコンクリートの壁に囲まれた空間である。

〈内部ゲート閉鎖します〉

 いつも通りの手続きであり、桜と山本は、どこ吹く風で舷窓の風景を見ていた。山本はまだする事がないせいか、両手を頭の後ろに回したままである。【疾風】は、この二人に中島を入れて三人で運行される。

 いつも通りの任務で落ち着いている二人に対して、中島は正面にある大型ディスプレイを確認する事に忙殺されていた。このディスプレイにはセンサー全ての状態が表示されている。


 中島は、目の前のタッチパネル式ディスプレイに加え、正面右から順に操縦桿、トラックボール、キーボード、スロットルを使って、あらゆる機器類の操作を行う。

 これらのディスプレイと操作システムは、各座席ともある程度共通で、非常時には砲術士席や、航法士席でも操縦が可能である。そして船長席から砲術士席や航法士席の操作を行う事も出来る。

 一般に航法士は、全センサーの監視と捜索、通信を取り扱う。

 駆逐船のセンサーは、水平線レーダー、赤外線センサー、アクティブおよびパッシブソナー、そして船外を監視する通常および赤外線カメラが搭載されている。

 駆逐船の通信は、無線交信だけでなく、GPS衛星による自己の位置確認、上空を哨戒している、無人機から提供される怪物の捜索情報と他船の位置、無人機が中継する他船が発見した怪物の情報、そして近くにいる他船と直接交わす情報まで、航法士は扱う。現在、軍民問わず全ての船は、いずれかの国、あるいは共同体の情報ネットワーク下にあった。

 これだけのセンサーを扱うには、本来高度な技量と経験が必要とされるが、FCS(火器管制装置)により情報は統合化されており、必要な情報は完全に整理されて航法士に伝えられる。


「中島、壁の向こうは地獄だぞ。気を引き締めてかかれ」

 桜は、目線を壁に向けたままだった。中島は頭を上げて桜の顔を見る。中島は桜の真剣な眼差しに、浮足立った気持ちが落ち着いた。中島は、やはりこの人は、若くても船長なんだと気づかされる。

 中島は、今はとにかく自分の仕事をするだけだ、訓練所で学んだ事をキチンとやってのけるだけだと決めた。

 中島の視線に気づいたのか、桜もチラリと中島の顔を見る。しかし中島は、センサーの操作に戻っていた。桜は中島の横顔をしばらく眺めた後、視線を前方に戻す。桜は懐かしそうに一瞬微笑んで見せたが、中島はそれに気付く事は無かった。

〈指揮所から【疾風】へ、外部ゲート開放します。解放後ただちに現地へ急行して下さい。桜ちゃん気を付けて!〉

 桜は、「麻美め、今度キチンと締めないと」とつぶやき、気分を変えるように体を一度揺さぶって、宣言を始める。

 桜の悪態を聞いた中島は――桜さん、僕の印象とエライ違いです――と思った。中島の桜に対する幻想は壊れ始めた。残念ながら、それはまだ始まりでしかない事を後で知る。

「【疾風】、了解した。ただちに緊急発進する」

 外部ゲートの向こう側は人間が優越する世界ではなく、海を棲みかとする怪物たちの世界である。その世界で人間は、ただの『エサ』に過ぎない。

 外部ゲートが、低いモーター音と共に左右に開き始める。隙間から波が漏れ、中間ロック内の【疾風】をゆっくりと揺らす。

 桜はガスタービンエンジンとウォータージェットの接続を切ったまま、エンジンを吹かした。中島は驚いてビクリと首をすくめる。

 ゲートが完全に開放されると、【疾風】はようやく外海へと前進する。そこは灰色の空から雪が舞い降りており、眼前には黒い海から盛り上がる高い波が視界を塞いでいた。

 普通、初めての実戦で海を見る事は、新人乗員にとって一生の思い出であると言われている。しかし今の中島は目の前の仕事に忙殺されて、そんな感慨にふけっている余裕はなかった。


 駆逐船が周辺を監視する方法は多岐に渡る。

 一つ目は船が保有するセンサーを使う事。現在、水上船の全てがAIS(自動船舶識別装置)だけでなく、レーダーリフレクターと電波、赤外線を放射するビーコンが搭載されている。その為、秘匿行動中の軍艦を除けば確実に発見が出来る。

 二つ目は上空を飛んでいる無人機からの情報を受け取る事。これは無人機のレーダー、赤外線による海面捜索情報だけでなく、航行する船のビーコン情報も統合し周辺にいる水上船に情報分配する。よって各水上船は、航行地域のかなり遠方まで他船や怪物の位置を把握している。

 しかし船乗りの意地としては、古典的な水平線レーダーと自分の目で捜索する事を絶対に止める事はなかった。


 中島は水平線レーダーのスイッチを入れた。そして桜の命令通り、ディスプレイに表示されるレーダー画像を素早く確認して、周辺に船がいないかを確認した。

「船長、周囲に船はいません」

 中島は安堵したように桜へ報告する。

「中島、外を見てみろ。雪が降っている時はどうするんだ」

 桜は冷淡な視線を中島へと向けていた。中島は、「済みません!」と慌てて赤外線センサーのウインドウを拡げて確認した。周辺には船は出ていない。中島は――赤外線センサーで再確認なんて、基本手順じゃないか――と自分をなじった。

「周辺に船はいません!」

 中島は、桜の顔をチラりと伺いつつ結果を報告した。桜はこっそりと自分のディスプレイにも、レーダーと赤外線センサーのウインドウを表示していた。しかし、それは口に出さなかった。

「了解。港を出たら全速力で急行する。中島は続けて各センサーで捜索を続けろ。何かあったらすぐに報告」

 桜はそれ以上、何かを言いたそうではあったが、新米にはこれ以上言っても無駄だと思い、諦めて操縦に集中する。

 桜は「もう……」とつぶやいた後、気を取り直して窓の外に目を移し、進行方向に他船がいない事を確認した。そしてガスタービンエンジンとウォータージェットを接続し、さらにスロットルを最大まで上げた。

「ザァァァァァ」

 荒れた海を舳先でかき分けながら、二百五十トンの船体が急激に速度を上げていく。じきに最大速度は四十五ノットにまで加速され、怪物のいる地点へと一直線で疾走していった。

 中島は疾走中の激しい振動に揺さぶられながら、一瞬だけディスプレイから窓外へと視線を移す。さっきまでチラついていた雪は、今では本降りとなっていた。

「中島、雪が強くなった。訓練所でどう習った?」

 中島は振り返り桜の顔を見る。桜は中島など見てはいなく、前方を注視していた。

「はい、水平線レーダーと赤外線センサー、共に出力を上げます」

「よろしい。次は言わないでもやれ」

 桜は寒い目で中島を見ていた。それに中島は「すぐやります」と答えた。中島は――桜さん、その目は寒い、寒すぎます――と思った。

 中島のそんな思惑はともかく、【疾風】は雪の降る中、高波を切り裂き、怪物の待つ海まで突き進んでいった。

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