米欲

祐里

 五十を過ぎた私のもとに、枯れたはずの性欲が頻繁にやってくるようになった。早朝の目が覚める頃、『僭越ながら』とでも言いたげに。ウォーキングと炭水化物制限で痩せ始めてからだ。太っていた頃には、こんなことはなかった。

 若い頃に戻ったとはいえないまでも、下半身と背中がすっきりしてきたのは確かだ。それにしたって、『若い頃に戻ったとはいえない』と考えるのは脳だけなのだろうか。下半身はちょっと贅肉が落ちたくらいで若返ったと勘違いするお花畑なのだろうか。


 午前六時、アラームのショパンの革命のエチュードが部屋中に響く。緊張感のある目覚めで少しでも下半身の疼きをなくそうという試みだが、腰のあたりの鈍いミシミシは消えてくれない。いつまでも気持ち悪い甘さを舌に残す人工甘味料が埋められたかのように、ずっとそこにある。だというのに、指先で秘所を触ってみても潤いはない。イライラする。

「……はぁ、やれやれ」

 やっと閉経を迎えられるという年齢で、これはない。脳はそんな悲劇を懸命に自身に投影させようとする。でも下半身はそんなことお構いなしにエクスタシーを求める。この凸凹コンビは一体どうしたものか。


 前回の生理は三ヶ月前だった。あと九ヶ月生理が来なければ、閉経したと大手を振って言える。面倒な生理なんかさっさと捨てて、早く枯れた梅干しババアになりたい。どうせ更年期障害の体調不良はやってくるのだから。

 しかし、訪れたのはやたら強い性欲である。どこぞの怪談話のごとくシロアリに食われても枯れる寸前に見事な花を咲かせる梅の木かよ、と何度自分につっこんだことか。体調不良になるのは困るけれど、私は性欲ではなく更年期障害をお出迎えしなければならない年頃なのだと全世界に大声で言いたい。でも実際には、言う相手は一人しか思いつかない。


 布団の中でスマホを手に取り、彼にいつもの挨拶を送る。

『おはよ』

 潤いを求めているわけではない。

『おはよ。今日もエロい目覚めだった?』

 人工甘味料のしつこい甘さを取り除くには、それ以上の刺激が必要だ。

『まあね』

 下半身にお花畑があるとすれば、そこには何の花が咲くのだろう。

『いいね。またしようよ』

 ドクダミの白い花ならかわいいし、体に良さそう。

『いつがいい?』

 ウォーキングで会ったときに訊けばいいだけ。でも訊く。

『要相談』


「面接かよ」

 掠れた声で吐き捨て、私はやっとベッドから立ち上がった。



 結婚は未経験でもセックスの経験はある。今どきそんなの普通だろう。

「あ、来た来た」

「早かったね」

「待ち遠しくて」

「そういうのいいから」

 ウォーキング中にも、会えば軽口。ウォーキング仲間として仲良くなり、教えてもらった年齢は『四十七歳』だった。そのわりに、彼は白髪もシワも目立っていない。

「いいじゃん、お互いシングルなんだし」

「あんたなんかただのセフレだよ」

 決まった恋人ではなく、セフレ。そういうのだって普通の世の中になっている。

「まだお米食べてないんだ?」

「食べてはいるよ。痩せる前の半分以下に減らしてるだけ」

「どんどん痩せてる」

 我慢できずに入ったウォーキング途中のラブホテルで、彼の指が、私のウエストを下からなぞる。

「不健康にならなきゃ何でもいいの。本当はこんなことなんか……」

「もっと鳴いてよ」

「あんたが話しかけるんじゃない」

「いいから」

 鳴いて、なんて古臭い言い方。でも今どきの言い方はわからない。官能小説やエロ漫画を読む趣味はない。

「無理」

「じゃあ、米のこと考えて」

「は? 米のこと?」

「白米食べたいでしょ、本当は。焦がれてるでしょ」

 別に炭水化物制限は苦しくないよ、と言おうとして、ほかほかご飯が頭に浮かんだ。彼の手が私のハリのない乳房をやわやわと撫で、親指と人差し指が乳首をつまんだ。


 もっと強くしてほしいと言いたいけれど、どうしてだか言えない自分がいる。ほかほかご飯のせいだろうか。いつもは言えるのに。

「もしかして本当に白米のこと考えてる?」

「……え?」

「かーわいー」

 バカじゃないの、と言おうとして、ほかほかご飯に乗せられたなめらかなピンク色の明太子が頭に浮かんだ。薄皮に切れ目が入れられ、中から小さなつぶつぶがはみ出して真っ白なご飯にくっついている様が、脳内で再生される。


「俺、年齢を重ねた肌が好きって言ったことあったっけ?」

 言ってたね、と言おうとして、ほかほかご飯に乗せられた鮮やかなくれないの梅干しが頭に浮かんだ。しわが寄った部分を箸で切られ、取り出された種が真っ白なご飯を染めていく様が、脳内で再生される。


 彼の指が私の太ももをするりと撫でながら、秘所に到達した。

「なんかいつもよりエロい。すっごい濡れてる」

 そんなことない、と言おうとして、つややかな光沢を持つ生卵が頭に浮かんだ。無防備で艶めかしい曲線を箸先で刺され、漆塗りの古箪笥色の醤油とともに栄養満点の 濃い黄身が真っ白なご飯の上に滑り落ちていく様が、脳内で再生される。

乳房から、彼の舌が離れた。

「鳴けよ」

 たった三文字が腰に与えられる刺激と連動し、自分でも驚くくらい色っぽい声が漏れた。



 そんなセックスをした翌日、生理が来た。腹痛と腰痛と頭痛を連れて。私の体はいつになったら生理に嫌われるのだろう。いつになったら更年期障害とやらを感じるようになるのだろう。

 鎮痛剤を飲み、腹を立てながらスーパーに行く。ご飯に合いそうな漬物と、ご飯に合うに決まっている明太子と、塩分控えめではないしそ漬梅干しをカゴに入れて、レジへ。

 私は別に痩せたいわけではない。健康でいたいだけなのだ。


 帰宅してすぐに炊いたほかほかご飯の上に、梅干しを乗せて口に入れる。

「美味しいなぁ……うん、美味しい」

 塩味と赤しその香りと梅の酸味が誘う唾液が次から次へと口の中を潤し、あっという間に茶碗一杯分を平らげてしまった。


 米二合は、その日のうちに私の中に消えた。

『玩具買ったよ』

『バカじゃないの』

 今度は、差し出がましい性欲に邪魔されずに言えた。

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米欲 祐里 @yukie_miumiu

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