醜い心を薔薇の根に

白菊

どうしようもなく……

 うっとりした。やわらかさは優しく、ぬくもりは切なく、かすかに香る肌は燃えるように、僕の心を満たした。

 Nは眠っている。長いからだを横たえて、革張りのソファで無防備に眠っている。吸い込まれるような澄んだ瞳を長い睫毛で隠し、さらりとした髪を重力に任せて乱し、誘惑するようにくちびるを薄く開いて、眠っている。

 僕は彼の、口許の甘いふくらみをくちびるで噛んだ。もう耐えられなかった。彼が目を覚ましてしまうかもしれない——冷静に考える部分を残しながら、至高のよろこびを貪る。指先に彼の頬の感触を刻み込む。

 呼吸を乱して離れた。Nが起きる気配はない。

 僕は彼の頬の感触を覚えた指で自分のくちびるを撫でた。許されることなら——こんなにも起きないのなら、その頬にも……。

 ああ、どうしようもなく……好きだ——。


 呼吸が鎮まるごとに、苦しいほど冷静になった。気がおかしくなりそうで庭へ逃げ出すと、途端に涙があふれた。脚から力が抜けた。醜い、忌まわしい、穢らわしい。僕はなんてことをしたんだろう!……あのNに、なんてことを!……

 風が吹いた。すぐそばで葉が擦れる。雲が流れて満月が覗く。胸が焼けるような薔薇の匂いがただよう。嫌厭きらいだ。誇らしげに咲くこの薔薇はなが、赤い薔薇はなの咲くこの場所が、彼に出逢ってしまったこの場所が……大嫌厭きらいだ。

 ——気配がして顔をあげた。よく見知った顔の男がいた。その髪、その目、その口……鏡の中にいるのを、毎日見ている。

「僕が悪いのかい」数メートル先に立つ僕が云った。その僕が一歩近づいた。「僕が悪いの?」僕の目の先で、僕が笑う。「どうしてそんなことが云える? 僕はひとを愛したんだ。これは尊ばれることじゃないのかい? 僕は彼を愛した。Nを愛した。気がどうにかなってしまいそうなほど……強く愛した。これを醜いなんて、穢らわしいなんて……どうして云える?」

「黙れ……」

「彼が女なら!」途端に、僕の口調が強くなった。「……あるいは僕が女だったなら。誰だって否定しない、そうだろう! 僕も愛しいNも男であったからいけないものとされるんだ! 間違っていると! いかれていると!」僕はゆるゆると首を振って近づいてくる。「……でもそうじゃない。僕はなにも間違ってない。僕は美しい。ひとを愛したひとである僕は尊重されるべきだ、そうだろう?」

 僕は立ちあがった。「違う……」

「いいや、違わない。なにも違わない。僕は間違ってなどいない。彼に惹かれたことはなにもおかしなことじゃない。……どうして僕を否定する? どうして僕の存在を拒む? なにも間違っていないのに、なにも悪いことをしていないのに……きみはどうして僕を否定するの?」

 雲が月を隠した。僕の姿も見えなくなった。足音だけが近づいてくる。

 心臓が狂ったように震えている。肌が粟立つ。呼吸がへたになる。「だめだ、だめだ……いけないんだよ、これは、これは悪いことだ! だって……Nは……僕を友達と、呼んでくれた……そんなひとに、こんな想いを抱いてはいけないんだよ!……おまえは間違ってるんだ!」

「間違ってない」——声はすぐ近くで聞こえた。

「間違ってるんだよ! こんなんじゃいけない! 僕は正しくなくちゃいけない!……Nのそばで、平気でいなくちゃいけない!」強く手を握った。手のひらに爪が食い込む。「……おまえはいちゃいけないんだ、おまえは……おまえの存在は間違っている!」

 すぐそばの気配に向かって片足を踏み出した。

「失せろ!……」

 こぶしの小指側を、胸のあたりに振り下ろした。なにか切り裂いたような感じがあった。手が熱く濡れた。胸が爛れるように痛む。息のしかたがわからなくなった。

 暗がりにすうと光が差した。すぐそばに、目を見開いて苦痛に顔を歪めた僕がいた。

 僕と僕の間に、ゆっくりと距離ができる。

 鈍い音がした。僕の前で、僕が死んだ。途端に、胸の痛みが消えた。息ができるようになった。

 濡れた手は赤かった。ナイフを握っていた。


 風はぴたりと止んでいた。月の光も、甘ったるい薔薇はなの匂いもない。


 穴を掘った。死んだ僕のそばで不気味に光っていたショベルを無心で土に突き刺して、掘り起こした。完全なる静けさの中だった。匂いも明かりもない夜の闇の中で、ショベルと土の重みばかり鮮明に感じながら、ひたすら掘った。

 暗闇にぽっかりと穴があいた。そのそばにぼんやりと、死にかけた植物が見える。わずかに残った葉も傷みきった、ほとんど茎だけの薔薇いばら

 僕は重たい僕を引き摺って、穴に落とし込んだ。そばにこんもりとできた山を崩して、僕を隠した。僕が見えなくなっていく。僕が埋まっていく。僕が消えていく。

 深く息をついたとき、手のべっとりした赤い汚れも、ナイフもショベルも消えていた。ただ足許の土が、掘った穴を埋めたように周りと色を変えているだけだった。

 もう、大丈夫——。



「S……」

 目を閉じたまま、くちびるを撫でた。息が熱い。

 ふと眠りから覚めた。彼が部屋に這入はいってきたためだとわかると、胸の中が熱を帯びてうるさくなった。彼の立てる音は僕の感覚を研ぎ澄ます。二年前、出逢って間もないうちからだ。彼の足音が、彼のちょっとしたくしゃみが、声が——僕をひどく敏感にした。日頃、何事にも対しても静かな心臓が、彼の存在に対しては音を立てるようになっていた。


 あの瞬間、くちびるがやわらかな刺激を受けて湿った。感覚のまだ目覚めきっていないところも途端に目を覚ました。思わず目を開いた。彼の真剣な目が見えた。すがるような、しかしどこまでも優しい目。どきりとして震えそうになった。急いで目を閉じた。もっとも、目は長い間閉じてはいられなかった。何度も閉じなおした。

 この上ない幸福だった。ああ!……よっぽど応じてしまいたかったが、彼は僕が眠っているものと信じているようだった。応じてしまえば、彼を怖がらせてしまうと思った。どんなに、どんなに応じたかったことか! 自分からも彼を求めたかった。


 好意に対して自覚が芽生えてから、彼は僕の幸せだった。彼がそばにいるとき、僕は必ず幸せだった。

 次第次第に、彼にふれたいと思うようになった。その肌が感触を伝えてくるのを味わいたいと思うようになった。けれども、それはつい先ほどまで、いけないことだった。Sはそれを望んでいないと思っていた。

「ああ……」

 しかし、そうではない。彼は僕にくちづけした。

 深呼吸した。體の熱は冷めない。

「S……」

 ああ、僕はどうしようもなく——……。

 好きだと、伝えてみるのもいいかもしれない。



 青い空に、白い雲が眠たげに浮いている。

 足音がした。僕は振り向いた。Nがいた。

「S。ごめんね、突然に」

「N……きみから話がしたいなんてどうしたんだい? しかも庭で、なんて」

 Nは含羞はにかんだように笑った。「なんでかはわからないんだけど、……ここはなんか、心地いいんだ。ここでなら、伝えてもいいような気がして」

 僕は「なにを?」と笑い返した。それから、胸が一度、強く鼓動した。

 途端に先夜せんやのできごとを思い出して足許を見た。土の質感が違う。踏んでみるとやわらかい。それからそばの薔薇の株を見た。

 暗闇の中で見た姿とはまるで違う。葉は青く繁り、いくつもの蕾がついている。そのうちのひとつが割れて真紅の花弁を覗かせ、あとはのびのびと開くだけとばかりに力強く渦巻いている。

 Nに向きなおる。心臓がうるさい。顔が、體が熱い。

 ——殺して、地の深くに埋めた僕が、胸の奥で目を覚ました。



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