第四十話:空白の玉座

 街は、目に見えない、戒厳令下に置かれていた。


 橘美咲、失踪。

 その一報は、瞬く間に日本中を駆け巡り、街はパニックと恐怖の、坩堝と化した。テレビの画面では、専門家たちがしたり顔で、彼女の危険性を語り、ヘリコプターがサーチライトの、白い光で、夜の街を神経質に、舐め回している。


 主要な幹線道路には、検問が敷かれ、青と赤、回転灯が湿った、夏の夜気に、不気味な光の模様を、掛き出していた。


 県警、合同捜査本部は、その威信を、完全に失墜させていた。厳重な監視下にあったはずの、重要参考人。それも、日本中が注目する、事件の黒幕を、みすみす逃してしまったのだ。

 移動司令車両の中で、溝口は、怒号と鳴り止まない電話のベルの、洪水の中にいた。


「……どうなっている! 施設の、警備は!?」


「それが、監視カメラの映像が、十分間だけループしていました。非常に、高度なハッキングです。内部に、協力者がいた、としか……」

 溝口は、舌打ちした。

 カルト。あの、ハイエナども。佐伯剛三に、牙を、剥かれ、散り散りになったと、思ったが、まだ、女神に、忠誠を、誓う、狂信者が、残っていたのだ。



 ◇



 その頃、広瀬未央は、自室でその狂騒をまるで他人事のように眺めていた。

 テレビに、映し出される混乱。ネットに溢れる、憶測。そのすべてが、あの女の掌の上で、踊らされている、滑稽な人形劇にしか、見えなかった。


 橘美咲は、逃げたのではない。

 彼女は、自らの意志で舞台を降りた。そして、この街全体を、新しい巨大な舞台へと、作り替えようとしているのだ。


 スマートフォンの着信が、鳴る。佐伯剛三からだった。

 その声は、意外なほど、冷静だった。怒りよりも、むしろ長年の好敵手の見事な一手に、感嘆しているかのような響きさえ、あった。


『……見事なものだな、橘美咲という芸術家は』


「先生……」


『彼女は、法廷という俗な舞台で自らの芸術を裁かれることを、拒んだ。そして、自ら最後の、エキシビションを、企画したのだ。観客は、この街のすべての人間。そして、主賓は我々というわけだ』


「……学校。彼女が残した、あの絵……」


『ああ。彼女は、必ずそこに現れる。隠れるためではない。演じるためだ。だから、広瀬さん。君は、もう、出てくるな。これは、危険すぎる』


 その言葉に、未央は何も答えなかった。

 電話を切った後、彼女は静かに、喜びを表現しているように立ち上がった。

 出るな、と言われて引き下がる、自分ではもうないことを、獅子も、そして自分自身も、よくわかっていた。



 ◇



 その女王は、優雅なサンクチュアリにいた。


 市の、街並みを見下ろす、北部の丘陵地帯。そこに、ひっそりと佇む、ガラス張りのモダンな邸宅。それは、佐伯剛三の攻撃によって、失脚したIT企業の元役員――カルトの信奉者の一が、所有する隠れ家だった。


 橘美咲は、巨大な窓の前に座り、眼下に広がる宝石のような夜景を、見つめていた。その顔に、逃亡者の悲壮感は、微塵もない。


 彼女は、描いていた。

 傍らの、イーゼルに立てかけられた、数枚のキャンバス。そこに、木炭で描かれていたのは、この物語の登場人物たちの、肖像画だった。


 傲慢で、孤独な獅子、佐伯剛三。

 正義と罪悪感に揺れる、溝口。

 心を壊され、再生しようとする、桐谷海都。

 そして、自らの分身であり、最高傑作であった、娘、陽菜。


 最後に、彼女は新しいキャンバスに、一人の少女の輪郭を、描き始めた。


 広瀬未央。

 この自分の完璧だった、神話を破壊した、唯一の人間。

 彼女は、逃げているのではなかった。

 最後の個展のための、作品を描いているのだ。

 彼女の、生涯を懸けた復讐と、芸術の集大成。そのための準備を。



 ◇



「……溝口警部。私です」


 深夜、未央は意を決して、溝口の携帯に、直接電話をかけていた。


『広瀬さんか。どうした。こんな、時間に』


「橘美咲が、隠れている可能性のある所を、見つけました」


『何!? どこで、その情報を……!』


「それは、言えません。でも、彼女はただ隠れているだけじゃない。何かを準備しています。彼女が、残した、あの絵。あれは罠です。私たち全員の注意を学校に引きつけて、その、裏で、本当の計画を、進めるための」


 受話器の向こうで、溝口が、息をのむ気配がした。

 長い、沈黙。


 そして、彼は決断した。


『……わかった。場所を、教えてください。非公式に、動きます。どこで、会える?』



 ◇



 深夜の公園。

 ブランコに腰掛けた未央の前に、溝口が、一人で現れた。


 未央は、彼に丘陵地帯の、邸宅の場所を告げた。


「……感謝します」


 溝口は、それだけ言うと、踵を返そうとした。


「待ってください」


 未央は、彼に一枚の書類の書類、コピーを手渡した。


「これは……?」


「橘美咲が、残したスケッチ。その、紙の鑑識結果です。桐谷先輩のお母様が、警察から返却された遺品の中から、見つけてくれました」


 溝口は、その鑑識結果に目を通し、絶句した。


「……馬鹿な。指紋が検出されている。それも、橘親子のものではない。これは……佐伯翔くんの、ものだ」


「ええ。彼女が、使ったのは、陽菜のスケッチブック。そして、そこには、生前、翔くんが、描いた、絵が、残っていたんです。彼女は、わざわざ、その、ページを、破り取って、我々への、招待状として、使った」


 その瞬間に、二人はすべてを理解した。

 橘美咲の、最後の作品。その、本当のテーマを。


 これは、世界への、挑戦ではない。

 ただ、一人。

 たった一人の男への、復讐なのだ。


 佐伯剛三。

 自分の芸術を否定し、自分の人生を狂わせ、そして、今また自分の信者たちを、社会的に抹殺した、宿敵。

 その男の最愛の息子が、遺したもので、最後の罠を仕掛ける。

 それは、芸術家ができる、最も残忍で、最も美し復讐の、果たし方だった。


 溝口と未央は、言葉もなく、互いを見つめ合った。

 これから始まる、本当の地獄を、予感しながら。

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