第三十九話:獅子の鉄槌
その日、都心部は、地震でもないのに揺れた。
午前零時を回ったその瞬間から、まるで堰を切ったかのように放たれ始めた数々のスキャンダル。それは一点集中ではなく、あらゆる分野のトップに君臨する巨人たちを、同時に狙い撃ちにした、前代未聞のメディア・ブリッツだった。
テレビの速報テロップが点滅し、ネットニュースのサーバーが悲鳴を上げる。SNSのタイムラインは、人々の驚愕と、混乱と、そして下世話な好奇心で、埋め尽くされた。
『建築界の巨匠、巨額脱税疑惑』
『金融界の風雲児、インサイダー取引で強制捜査』
『文壇の重鎮、二十年来の盗作を告発される』
一見、何の脈絡もない、それぞれの事件。だが、その背後で、一本の見えない糸がすべてを操っていることに気づいている者は、まだ誰もいなかった。世界はただ、巨大な何かが動き始めた、その予兆に震撼していた。
広瀬未央の家の前に停まっていた黒いセダンは、夜が明ける頃には跡形もなく消え去っていた。
ハイエナたちは、もはや彩ノ宮市の一人の女子高生に構っている暇など、なくなったのだ。彼らは今、自らの都市の炎上を食い止めるために、必死で走り回っている。佐伯剛三が放った鉄槌は、彼らの足元を完全に、打ち砕いたのだ。
その日の、昼過ぎ。
未央のスマートフォンに、非通知の着信があった。
『……君か。君なんだな。あの獅子を解き放ったのは』
それは、評論家の渋沢の声だった。その声は、怒っているようでもあり、呆れているようでもあり、そしてどこか、楽しんでいるようでもあった。
「……何のことか、わかりません」
『白々しい。佐伯剛三という男は、そういう男だ。自分の縄張りを荒らされたとなれば、相手の巣穴ごと焼き尽くす。正義のためではない。ただ、己のプライドのためにな。君は、とんでもない怪物を、目覚めさせてしまったんだぞ。もはやこれは、正義の告発ではない。ただの、粛清だ』
「……」
『だが、面白い。実に、面白い。腐りきった、あのサロンの連中が、どんな顔で逃げ惑うのか。特等席で、見物させてもらうとしよう。せいぜい、獅子に食われないように気をつけることだ』
一方的に、電話は切れた。
未央は、自分が犯したことの大きさを、改めて感じていた。自分はただ、真実を求めていただけなのに。いつの間にか、自分は巨大な権力闘争の駒から、その引き金を引くプレイヤーへと、変わってしまっていた。
◇
県警、捜査本部。
溝口と相田もまた、テレビの画面に釘付けになっていた。
「……馬鹿な。偶然、とは思えません」
相田が、愕然と呟く。画面に映し出される、疑惑の渦中の人物たちの顔。そのすべてが、橘美咲の周辺人物として、自分たちがリストアップしていた名前と、完全に一致していた。
「佐伯剛三……」
溝口が、苦々しげにその名前を口にした。
「あの老獅子が、ついに動き出したか。我々警察を完全に無視して、私的な戦争を始めやがった」
「どうしますか!? このままでは、我々の捜査が……!」
「いや」
溝口は、相田の言葉を、遮った。
「逆だ。これは、好機だ」
彼の目は、据わっていた。
「奴は、我々のために道を作ってくれている。敵の城壁を外から破壊し、その援軍を断ち切ってくれているのだ。橘美咲という、女王を守っていたドラゴンたちは、今や自分の炎で焼け死ぬ寸前だ。彼女は、裸の王様になった」
溝口は、立ち上がった。
「相田、行くぞ。今だ。今なら、あの女王の首に、手が届く。奴が完全に孤立し、絶望した今、この瞬間を逃すな」
◇
その日の、夕刻。
未央の元に、再び佐伯剛三から、電話があった。
その声は、嵐が過ぎ去った後のように、静かでそして絶対的な自信に満ちていた。
『ニュースは見たかね、広瀬さん』
「……はい」
『ハイエナどもは、もう君や君の家族にちょっかいを出すことはないだろう。奴らは、自分の命を守るのに、必死だからな。これで、わかったかね。法など、無力なのだよ。真の力とは、こういうものだ』
「……」
『私は君のために、舞台を整えた。警察が、あの女を裁くための、道を舗装してやった。そして君が、真実を語るための、最高の舞台を用意した。あとは、君がペンを取るだけだ。世界が、今知りたがっている。『なぜ、こんなことが起きたのか』。その答えを、書くんだ。君にしか、書けない物語を』
それは、最後の指令だった。
そして、彼からの、信頼の証でもあった。
◇
だが、その獅子の計算さえも超える事態が、水面下で進行していた。
溝口と相田が、数人の捜査員を引き連れて、橘美咲が収容されている彩ノ宮市の療養施設に、踏み込んだのは、日が完全に落ちた後のことだった。彼らの手には、美咲の身柄を確保するための、正式な令状が握られていた。
彼女の支援者(パトロン)たちが失脚した今、もはや彼女を守る壁は何もない。
誰もが、そう確信していた。
病室のドアが、開けられる。
だが、そこにいるはずの女王の姿は、なかった。
部屋は、もぬけの殻。ベッドは、綺麗に整えられ、まるで誰もいなかったかのように、静まり返っていた。
「……逃げられた、とでもいうのか!?」
相田が、絶叫する。
だが溝口は、ベッドの上に、一枚の紙が置かれているのに、気づいた。
それは、手紙ではなかった。
ただの、一枚のスケッチ。
鉛筆で描かれた、その絵。
そこには、あの創星祭のステージになった彩星芸術学園の、エキシビションホールが描かれていた。
そして、そのステージの中央には、ぽつんと一つだけ空っぽのイーゼルが置かれている。
溝口は、その絵が意味するものを、瞬時に理解し、戦慄した。
橘美咲は、追い詰められて逃げたのではない。
彼女は、自らの意志で、この檻から出て行ったのだ。
そして、これは彼女からの招待状。
すべての始まりであり、終わりであった、あの場所へ。
最後のゲームを始めるための、あまりにも不吉で、美しい招待状だった。
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