第四十一話:観測者たちの夜
橘美咲が、その繭のような療養施設から姿を消して、丸二日が過ぎようとしていた。
市の北部に連なる丘陵地帯。その深い森の闇に、溶け込むように建つ、ガラス張りの邸宅。その周囲、数百メートルの空間は、もはや日本という国家の法が及ばない、治外法権の戦場と化していた。
木々の影に身を潜める、県警の特殊捜査班。溝口が選び抜いた少数精鋭たちが、息を殺し、邸宅のあらゆる窓を監視し続けていた。双眼鏡のレンズの向こう側。時折、カーテンの隙間から漏れる明かりの中に、人影が見える。橘美咲だ。
彼女は、逃亡者とは思えないほど落ち着き払い、そして優雅に、アトリエとリビングを行き来していた。時にはキャンバスに向かい、時にはただじっと椅子に座り、眼下に広がる街の夜景を眺めている。
「……まるで、嵐の目のようだ」
車両の中で、モニターを監視していた相田が、呻くように言った。
「我々が、こうして包囲していることも、すべてお見通し、というわけですか」
「ああ」
溝口は、苦々しげに頷いた。
「奴は待っているのだ。自らが作り上げた、最高の舞台に観客が揃うのを。我々が迂闊に踏み込めば、それこそが奴の望む筋書きだ。我々は、ただ待つしかない。女王が、自らその幕を上げる、その瞬間を」
◇
その女王を狙う、もう一体の獣もまた、静かにその牙を研いでいた。
市内のホテルのスイートルーム。そこを、臨時の司令室とした佐伯剛三は、電話の向こうの部下に低い、しかし絶対的な威厳を含んだ声で、指示を与えていた。
「……警察の動きはどうだ」
『はっ。丘陵地帯の周囲に検問を敷き、完全に封鎖しています。ですが、突入する気配はありません』
「だろうな。溝口という男。慎重だが、それ故に臆病だ。橘美咲の狂気を前に、足がすくんでいるのだろう」
剛三の脳裏には、ただ一つの目的しかなかった。
橘美咲を、社会的に、法的に、そして芸術家として完膚なきまでに破壊する。自分の息子の命を弄んだ、あの女狐を、歴史から抹殺する。
「広瀬未央の、様子は?」
『警察の保護下に置かれたようです。市内の、セーフハウスに』
「そうか。賢明な判断だ。あの娘は、もはや駒ではない。このゲームの結末を記録する、重要な証人だ。絶対に死なせるな」
彼は警告していた。広瀬未央には手を出すな、と。だが、それは彼女の身を案じてのことではなかった。彼女は、自分が振るう最強の剣。その剣が、錆びついたり、折れたりすることは、許さない。ただ、それだけだった。
◇
警察が用意した、市内のアパートの一室。
広瀬未央は、その仮初めのサンクチュアリで、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
彼女は、筆記用具を手に、この数日間の出来事を整理していた。橘美咲が残した、あの一枚の絵。空っぽのイーゼル。佐伯翔の指紋。
その一つ一つのピースを組み合わせ、彼女は怪物の心の深淵を、覗き込もうとしていた。
空っぽのイーゼル。
それは、これから何かを描くためのものではない。
と、いうことは、作品はもう、完成している……?
では、彼女がやろうとしているのは、その完成した作品の『除幕式』なのではないか。
だが、その作品とは、一体何だ?
その時だった。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。アノニマスのSNSアカウントが、更新されたことを告げるアラート。
警察も、未央も、そしておそらくは佐伯剛三も。この事件を追うすべての人間が、その投稿に一斉に気づいた。
それは、画像ではなかった。
ただ美しい、明朝体のテキストだけが、そこに記されていた。
展覧会『最後の作品』
タイトル:『Pater Noster』
芸術家: 橘 美咲
開催日時: 宵の明星が、最も高く輝く時
開催場所: 舞台は、整えられた
特別招待客: 佐伯剛三
そして、その文章の最後には、一本のURLが添えられていた。
そのリンクをクリックすると、地図アプリが起動する。
そして、そこに示された、一点の座標。
それは、彩星芸術学園ではなかった。
今まさに、警察が包囲している、あの丘陵地帯の、邸宅の住所そのものだった。
◇
「……馬鹿な」
捜査本部の、相田が絶叫した。
「自ら、自分のアジトの場所を、全世界に公開したというのか!?」
溝口は、唇を噛み締めていた。
これは、罠だ。それも、あまりにも悪趣味で、あまりにも大胆な罠。
彼女は、逃げることをやめた。そして、自らの隠れ家を最後の、そして最高のステージへと、作り変えたのだ。
警察を、マスコミを、そして何よりも彼女が、その生涯をかけて憎み続けた宿敵、佐伯剛三を、そのステージへと招待したのだ。
移動司令車両の無線が、次々と報告を叩きつけてくる。
『座標地点に向け、報道のヘリが複数接近中!』
『ネット上で、座標地点への突撃を呼びかける、アノニマス信者と思われる書き込みが多発!』
『佐伯剛三のものと思われる車両が、高速道路をインターに向かって走行中!』
すべての役者が、動き出した。
溝口は、受話器を掴んだ。
「全部隊に告ぐ! これより、目標地点への突入準備を開始する! 繰り返す! 突入準備を開始せよ!」
そして、彼は部下の一人に言った。
「広瀬未央を、ここに連れてこい。彼女の目と頭脳が、必要になる」
バンが急発進する、キープレフトの音が響く。
未央は、その車の中で、窓の外を流れていく夜の景色を見つめていた。
彼女は、これから戦場へと向かうのだ。
神を気取った怪物が待ち受ける、最後の展覧会へ。
その結末を、見届けるために。
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