第8話 ぼやけていく境界


目が覚めた瞬間、喉の奥がぎゅっと詰まるような息苦しさがあった。

窓の隙間から差す光に、体を焼かれるようで、思わず毛布の中に潜った。


時計は、もう出勤時間をとっくに過ぎている。

それでも体はびくとも動かない。


わかってた。

本当は昨日から、ずっと。


通知が何十件も届いているスマホ。

バイト先から、そして彼氏から。


でも、画面を見ることすら、今はできなかった。


私は目を閉じた。

望んだのは、ただ一つ――夢の続きだった。



気づくとまた夢の中だった。


今日はいつもの部屋ではなくて。

広いダブルベッドの上、薄い毛布に包まれた私を、彼が優しく見下ろしていた。

彼はゆっくりと手を伸ばし、私の髪に触れる。


「今日は仕事休み…?」


その声が、遠くから響く。

夢なのに、彼の指先の温度も、視線の柔らかさも、すべてがリアルすぎた。


私は小さく頷いて、彼の胸元に顔を埋めた。

胸板の硬さ、呼吸のリズム、どれもが安心の輪郭を持っていた。


「…仕事サボっちゃった」


小さく呟いた言葉に、彼は少し笑った。


「それぐらい俺と一緒にいたかったってこと?」


その言葉に恥ずかしくなって、私は指先で彼のシャツの端をぎゅっとつかんだ。


「ねぇ、陸玖さんはここにいるの?」


私の問いに、彼は少し黙った。


「どうだと思う?でも香がそうやって俺に触れてるなら、たぶん今はここにいるんだと思うよ」


答えになっていないのに、涙が出そうだった。


「私、もう現実に戻れないかも…」


「戻れないんじゃなくて、戻らないなんじゃない?」


彼が優しく私の背を撫でた。

私はその手に身を預け、毛布の中で静かに目を閉じた。

何も考えなくていい。

何も背負わなくていい。


ただここで、彼の隣にいられるだけでいい。


「ここまで来たら怖いものなんてないよね?」


そう言って彼は私の額にキスを落とした。

時間が止まる感覚。

まるでこの空間だけ、夢の中の現実になったみたいだった。



目が覚めてしまったのは夕方の手前。

カーテン越しの光はすでに弱々しく、部屋の空気が静かすぎて怖かった。


スマホはずっと鳴りっぱなしだったみたいだ。

彼氏からのLINE、バイト先からの着信、グループチャットの通知。


私はゆっくりスマホの電源を落とした。


夢の余韻がまだ残っていた。

ベッドの中に漂う彼の匂い、手の温もり、あの柔らかい声。


ここにいるだけでよかった。

誰にも求められない、誰にも触れられない場所。

でもそこには、彼がいる。


そして私はまた深い深い眠りに落ちた。

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