第7話 やわらかい檻の中で

起きたときに喉がひどく乾いていた。

顔を洗ってもぼんやりしたまま、髪も整えずにバイト先の事務所に向かう。


もう少しで本格的に怒られるかもしれない。

けれどそんな不安すら、どこか遠くにある。


「遅れてすみません…」


タイムカードを押しながら小さく頭を下げると、同僚がちょっと驚いたような顔をした。


「大丈夫? いつも遅刻なんてしないのに…」


「…大丈夫だよ、たぶん」


笑おうとしたけど、頬が動かなかった。



「あんた最近変だよ…?どんどん隈が濃くなってるし、二日連続で遅刻なんて…」



「疲れが溜まってるだけだから…」


返答が面倒になりそそくさと自分のデスクに座ってパソコンを開く。

数字を打ち込む手は動いているのに、意識はどこか違う場所にあった。


「おかえり」

あの優しい声。

カップを両手で差し出してくれる姿。

柔らかい部屋の光。


気づけば、現実の中に夢のかけらを探している。


ドアの開く音、椅子の軋む音、空調の風。

すべてが色のない世界に思えてしまった。


「ここにいても、誰も私を見ていない気がする――」


そんな考えがふとよぎって、すぐに首を振った。


…それは違う。

ちゃんとみんなと働いてる。

彼氏だって、ちゃんと毎日連絡をくれる。

私が勝手に、心を閉じてるだけ。


そうわかっているのに、気持ちは現実になかなか戻ってこない。



「お先に失礼します」


定時で職場を出た。

太陽が沈む頃の空が好きなはずなのに、今日は胸に何も響かなかった。


家に帰ると、服を脱ぐより先にベッドに潜り込む。

寝落ちでも構わない。

とにかく早く、早く寝たかった。


布団の中でスマホを開くと、彼からのLINEが1件届いていた。


「今日もお疲れさま。何かあったら話してね」


やさしい言葉なのに、なぜか胸が痛くなる。

「大丈夫だよ」とだけ打って、送信せずに画面を閉じた。



夢の中。


もう慣れた、やわらかい明かりの部屋。

彼は窓際でカーテンを指でなぞっていた。

振り返ると、安心したように微笑んだ。


「今日は早かったんだ」


その一言で、世界がすべて許された気がした。


「…うん早く帰ってきたからね」


つい本音がこぼれた。

彼は何も言わず、そっと近づいてくる。


「なんで?」


そう言って、私の顔を覗き込む。


耳元にかかる息遣いが現実より確かで

胸の奥にあったモヤモヤが、少しずつ溶けていく。


「陸玖さんに会いたかったから」


柄にもなく恥ずかしそうに言うと


「知ってた」


ってからかうような顔で言われた

『他にも話すことあるでしょ』なんて全て見ていたかのように聞かれ、私は口を開いた


「今日はね遅刻したけど仕事ちゃんと行ったし、自分のやることもちゃんとやって、ミスもしてなかったのだから定時で帰ってきた」


子供の言い訳みたいに言ったけど、彼はうん、とだけうなずいた。


「えらいじゃん、よしよし」


その言葉と頭を撫でる手に、どうしようもなく涙がにじむ。


現実の誰よりも、夢の彼の言葉のほうが、ずっと心に届く。


私は今、どちらの世界で生きているのだろう。

気づけば、その境界が、少しずつ曖昧になっていた。

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