第6話 目が覚めても

駅の階段を駆け上がる頃には、息が切れていた。

電車に飛び乗って、揺れる車内でスマホを開くと、バイト先の上司に「ごめんなさい、寝坊して10分程遅れます」のメッセージを送った。


既読がすぐにつく。


胸の奥がきゅっと痛む。

申し訳なさと、言い訳できない自分への情けなさ。

だけど、それ以上に、今朝の夢がまだ頭から離れなかった。


彼のぬくもり。

囁く声。

柔らかな手の感触。


――全部、まだ体に残っている気がする。


自分でもおかしいと思う。

ただの夢なのに、こんなに引きずるなんて。

でも、どうしても現実に戻ってこれない。



職場の扉を開けると上司の視線が刺さった。


「おはようございます…すみません、寝坊してしまって」


ぺこりと頭を下げると、軽い注意が飛んできたが、怒鳴られることはなかった。


ホッとしたのと同時に、心のどこかがさらに冷めていくのを感じた。

こんなことで怒られたくない、でも、それ以上に何も感じない。

数字を打ち込む手だけがただ仕事をしていた。


ふとした瞬間に、「なんで仕事なんかしてるんだろう」って思ってしまう。

バイト先の人の顔も、声も、輪郭がぼやけているような気がする。


私がちゃんとここにいること。

何かをしていること。

全部うわの空で眺めているようだった。



昼休憩。

お弁当を食べるフリをしながら、スマホをじっと見つめていた。

彼からのLINEはいつも通り届いていたけれど、返信する気になれなかった。


優しさが、今の自分には重たすぎた。


「最近、疲れてない?」


隣に座った先輩が声をかけてきた。

笑ってうなずいたけど、うまく笑えていたかどうかはわからない。


「眠れてないだけなので、大丈夫です」


そう言いながら、内心では「眠ることしか楽しみがない」と思っていた。



バイトが終わる頃、空はすっかり夕焼け色だった。


事務所を出て最寄駅に向かう途中、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。


もちろん、誰もいなかった。


でも――もし、あの人が今この瞬間にもいてくれたら。

そう考えてしまう自分がいた。


電車に揺られながら、夢の続きを想像する。


今夜も、また会えるだろうか。

あの場所に戻れるだろうか。

だんだん、眠ることが待ち遠しくなっていく




布団に入った瞬間、深呼吸をした。

何もかも忘れて、ただあの人に会いたかった。

そう思いながら、私は目を閉じた。


――気がつくと、もうそこにいた。


あの部屋の窓は薄く開いていて、カーテンがふわりと揺れている。

夜なのにほんのり明るくて、月明かりなのか、彼の気配なのか、空気がやわらかい。


「遅かったね」


声がした。振り向くと、ソファの上で彼が眠そうにこちらを見ていた。

いつもの部屋着、ぼさっとした髪。だけど目だけは、まっすぐに私を見つめている。


「ごめん、今日は…バイト長引いちゃって」


「頑張ったんだ」


彼がゆっくり手を伸ばす。

その指先に触れた瞬間、心の奥に詰まっていたものが溶けるような気がした。


「ここにいると安心するの」


そう言うと、彼はふっと目を細めた。

まるで、私の全部を肯定してくれるような笑い方だった。


「じゃあ、ずっといればいいよ」


そう言ってくれた彼の声が、耳の奥に優しく残った。


現実では誰にももらえなかった言葉。

ずっと欲しかったのは、こういう優しさだったのかもしれない。


“陸玖さんのいる世界のほうが、ずっとあたたかい気がする。”


そんなことを思ってしまうのは、やっぱりおかしいんだろうか。


――でも、もうどうでもいい。


彼の隣で静かに目を閉じながら、私はそう思った。

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