第5話 目覚めたくない朝

「…戻りたくない」


自分の声が部屋に小さく響いた。

それを聞いた彼は静かに笑ってる。

夢の中のはずなのにその微笑みがあまりに優しくて、心がじわりと熱くなる。



彼が私の髪をそっと撫でた。

指先が耳の後ろをかすめるだけで、背中がぞくりとする。

耳元で彼が低い声で囁く。


「ここにずっといてよ」


その声が、優しいのにどこか怖くて。

現実のことなんか、何も考えたくなくなってしまう。



ゆっくりと彼が顔を近づける。

息がかかる距離で目が合うと、胸が痛いくらい高鳴る。

そして、ふわりと頭にのる手。


心地良い感触が一瞬で心を溶かしていく。

ただ頭を撫でられただけなのに涙が出そうになる。



彼が額を私の額にそっとくっつけた。


「最近無理してるでしょ」


その言葉に心臓を掴まれたように息が詰まった。

私は小さく首を横に振る。


「してないよ」


「嘘ってわかるよ」


即答された瞬間、視界が揺れた。

彼の手が私の頬を包む。

あったかい。

そのぬくもりにすがりつきたくなる。


「泣きそうじゃん」


「泣きそうじゃない」


「俺には2回も泣き顔見られてるんだからいいじゃん」


その一言で堰き止めてた涙がポロポロ出てきて、夢の中なのに涙の熱さが本物みたいで怖かった。



彼は静かに親指で私の涙をぬぐった。

そしてもう一度唇をそっと重ねた。

優しくてどこまでも甘いキス。

息を呑むほど長く続くわけじゃないのに、心が震える。


「今さ」


彼が目を見て言う。

声はいつもの低さだけど、どこか切羽詰まった響きがあった。


「戻りたくないって思ってるでしょ」


胸が苦しくなった。

嘘をつこうとして、でも声が出なかった。


「…うん」


認めた瞬間、自分でも驚くくらい涙が止まらなかった。

彼がそっと私を抱き寄せた。

その腕が、現実よりずっとリアルであたたかい。



「でも今日はここまでみたいだね」



その言葉と同時に意識が現実に引き戻された。




気づいた時には、また一人の部屋にいた。

カーテンの隙間から差し込む朝の光がやけに白くて眩しい。

視界がまだぼんやりする中、何気なくスマホを手に取った瞬間、血の気が引いた。


スマホの画面には、バイトが始まる時間が無情に光っていた。


「うそ…!」


心臓が一気に早鐘を打つ。

夢の続きを求めすぎて、現実がすっぽり抜け落ちていた。


髪も服もぐちゃぐちゃのまま、私は玄関へ飛び出した

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る