鈍感と春


休み明けの登校日ほど憂鬱なときはない。

地元の憧れであるさくら高校の生徒も、例外ではなかった。

1週間前、入学式に浮かれていた新1年生は、かつてのときめきをすっかり褪せさせてくさくさしている。

校門のそばで連日花吹雪にガチっていた桜の木は、老体を酷使し、ずいぶんとわびしい姿になった。元気だったころの面影が、地面にぽつぽつと埋まっている。


月曜日の逆風で、きっと世の中の景気も悪い。

月の字を起源にしているくらいだから、せめてもう少し夜更かしさせてくれてもいいだろうに。そんなふうに暴論に耽る生徒ほど、散った花びらを踏むのに躊躇がなかった。


おはよう、おはざす、おっはー、グモニン、アンニョン――十人十色な声かけが生徒玄関に飛び交うが、どこもかしこもいまいちぱっとしない。

来たばかりなのにもう帰りたそうな、あるいは眠りたそうな顔が渋滞している。

そんななかでも挨拶を欠かさないのが、さくら高校クオリティーであろう。


学校全体がそんな状況なら、華々しい入学日の時点で心が折れた1-Aは、果たしてどうなってしまうのか。


活気が低迷した本校舎3階、立ち並ぶ教室の最後尾。

開放された該当のホームは、案外、言うほど暗くなかった。

他クラスよりも断然空気が澄んでいる。日直がちゃんと窓を開けて換気しているおかげだ――と言いたいところだが、あいにくそれはどこにでもあてはまることだ。


1-Aにしかない特徴といえば、やはり、例のヤンキーだろう。

さくら高校で最初で最後――であってほしい――のヤンキーのプレッシャーは、月曜日という概念によるストレスをワンパンで打ちのめすのだ。

しかしその法則でいくと、どちらにせよメランコリックであるのが筋だが、まだヤンキーは登校前なので挨拶は声に出してできるし、しょうもない話で笑いも起きる。

たとえ登校してきたとしても、すべてが無効化されることはない。むしろちょっと早く来てほしい気持ちが、今日の1-Aの生徒にはあった。


(だって……気になるでしょう! メガネ男子とイケメンヤンキーの続きが!)

(俺の所有物って公言してからどうなったんだよ、あのふたり)

(灰田くんのプロポーズよかったなあ。『俺の人生にずっといてほしい、唯一無二のスペシャルな存在だぜベイベー』なんて……きゃっ、大胆!)

(突然ペットの話が始まったときはびっくりしたぜ)

(ミケ、だっけ? かわいいんだろうな。ぜひわたしたちにも癒しをおすそ分けしてほしいし、できれば写真はエアドロで全体共有が望ましい……だがしかし!)

(今はふたりの関係性が知りたくて、夜しか眠れない!)

(結局、仲良いの? 友だちなの? 舎弟なの?)

(付き合ってるの!? 付き合ってないの!?)

(金曜の6限、ふたりで一緒に遅刻してきた理由を、30字以内で述べよ)


不良は怖いけど、青春ドラマは大好物な生徒たち。

まるで月9を視聴する気分で、眠気も鬱も跳ね返し、青い春の訪れを待っていた。


時計の長針が「9」を刺した。

後方の入口から履き潰された上履きが侵す。

モデル顔負けのスタイルのよさ、ギャルのネイルくらい飾り気のある耳、勝ち気な猫のような歩き方。

みなさんお待ちかね、イケメンとヤンキーを両立させるたまきの登場だ。


教室中の視線が束になって注がれる。

鬼とおそれられる彼にも、さくら高校の生徒たるもの、「おはようございます」「今日もよろしくお願いします」と気持ちをこめて、まずは目礼から――


(――と思っていたときもありました)


結論、失敗。

原因、最大の長所といえる美貌に傷。傷。傷。


(傷だらけじゃねえか!!!)

(な、な、なんで!? せっかくのイケメンが台無しじゃない!)

(不良といえば喧嘩。……なんてわかりやすいマジカルバナナ)

(やばすぎ……)

(うわ、ブレザーの袖とかズボンの裾から包帯がはみ出てる。右手の人差し指なんか漫画みたいな巻き方してんじゃん。ひょっとして超重傷……?)

(指のは昨日からしてたような気もするけど……大丈夫なのかな。学校じゃなくて病院に行くべきじゃない?)

(あんなボロボロになるまで喧嘩してたってこと? 不良こっわ)

(東の金鬼でああなら、喧嘩相手は……ひええ)

(高校でも不登校者出す気か、あいつ……っ)


青春ドラマは好きだけど、やっぱり不良がおぞましい。

今にも血の匂いが漂ってきそうな生々しい傷の数々は、目にも心臓にも悪い。

先週とはちがうんだぞと奮っていたのに、このザマ。少しは耐性がついた気がしていたが……気のせいだったらしい。


教室の空気がどんより消沈していく。

いつもどおりといえばそうなのだが。いつもより格段に心の余裕があった手前、ショックも大きい。

こうなってくると、今日が月曜日であることもいやになってくる。

遅効性の毒にやられ、室内に響くのは時間を刻む音だけだった。


長針が一周しようとするかしないかの瀬戸際。

とある男子生徒が、滑り込みでやってきた。


「はー、間ぁに合ったー! おはよー!」

「あぁ、おは……っ!?」


ごく自然な挨拶に意識なく応じかけたクラスメイトは、ハッと覚醒した。

視界に入った姿かたちに、一同の目玉が飛び出ていた。


崩れた黒髪をすくい上げ、覗くおでこ、にじむ汗。

凛とした二重幅の下に転がる、濡れた漆黒の瞳。

切れ気味の息から香るフェロモン。

ブレザーのはだけた、性別不詳感のある華奢な体つき。それでいて頭は小さく、腰の位置は高く、理想的なバランスをしている。


罪に問われかねない魔性の美しさだった。

眺めているだけで、胸がリンゴン鐘を打ち鳴らす。


あんなイケメン、このクラスにいただろうか。

クラスメイト全員、身に覚えがない。イケメンといえば例のヤンキーくらいのはずだ。

彼の場合、イケメンはイケメンだが、美男子や色男の表現のほうがしっくりくる。

誰もが食い入るように胸元の名札を凝視した。


――灰田九。


なんとびっくり、その3文字が象られているではないか。


(は、灰田ぁぁああ!?!?)

(うっそーー!! 本当にあの灰田くん!? メガネ取ったら3の目をしてるんじゃなかったんだ!?)

(いやいやメガネだけでこんな変わる!?)

(なんでそんなすげえもん隠し持ってたんだよ、もったいねえ)

(1週間遅れの高校デビュー!?)

(リアルドラマ展開……!!)

(かわいさとかっこよさと美しさが黄金比率で融合している! 天然記念物よ! 国宝よ!)

(う、裏切り者……! 勝手に非モテ同盟を組んだ気でいたのに……! 除名だ除名! モテ散らかしてしまえ!)

(……あの顔……どこかで……?)


九の仰天チェンジは、傷だらけのたまきをはるかに上回るインパクトがあった。気落ちしていた心がぴかぴかに塗り替えられるほど。

不良がケガを負うシチュエーションは、いわば1+1=2くらい常識的なことだが、クラス1の地味男の劇的ビフォーアフターは、王道でありながらサプライズ性がとんでもなく強く、感動の余韻がいつまでも続いた。

若干1名、たまきと同中出身の男子は、悶々としているようだが。


素顔を露呈させた九が自席につくと、チャイムとともに担任の先生が入室してきた。

先生も窓際隅にいるふたりの変わり具合にぎょっとしつつも、なんとか朝礼開始の号令をかける。

起立、礼、着席。その命をすべてガン無視している猛者がいた。たまきである。

身なりからすでにルールに反した男ではあるが、今回のこれはわざとではない。単に聞いていなかっただけだ。メガネなしの九に、脳を焦がしてしまったせいで。


「お、おま……九……その顔……メガネは……」


先生が話し始めても、たまきは隣の席しか見ない。というより、九以外に目がいかない。

ごくりと生唾を飲んだ。

たしかに以前、メガネをしなくてもいいだろうと考えたことがあったが、だからって、昨日の今日でタイミングが悪すぎる。


「俺がクソダサメガネヤローって言ったから……」


昨日はクソもヤローもついていなかったが。

それには気づかずに、九はピンポイントでメガネというワードだけに食いついた。


「あーメガネ? それがさー、家出る前、ミケに取られちまったんだよ」

「……へえ」


たまきは即座に前に向き直した。心配して損した。

愚痴なのか惚気なのかわからない話を、九はかまわずに続ける。


「最近ミケが冷てえんだよなあ」

「……」

「たまきの話ばっかしてるからか?」

「……ふーん」


机の下でたまきの靴がぶらぶらし始める。


「メガネ取ったのもヤキモチだったんかなあ」

「……そう思うなら、そうなんじゃねえの」

「やっぱそうかー」

「うん」


たまきは横目でそっと隣を覗いた。

憂いを帯びた横顔は、まるで恋わずらい。

ガラスで蓋されていない目元は、くるんとしたまつ毛が羽のように広がる。


たまきの他にもチラチラと色めき立った眼差しが、九の顔面を往来していた。

真横に不良がいるとわかっていても心が惹かれてしまう。

九のギャップは底なし沼だ。穴場スポットでがらんとしていたはずの沼に、怒涛の勢いで片足が突っ込まれていく。

その様がたまきには、共感はできるが滑稽で、どうでもいいけれど気に入らなかった。

モヤッとして思わず、たまきは九の顔面に右手を振りかざす。

手のひらが九の小顔を包み隠す、すんでのところで、反射神経のよい九は蚊を叩くようにその手を払い落とす。


「イッ……」


先週の体育で突き指した指に、瞬間的に痛みが突き抜ける。

たまきは舌打ちする1秒前のようなうめき声をこぼした。


ケガした日の夜に渋々冷えピタをはがし、冷感タイプの湿布を代用した人差し指は、九が手当てしたときの原形を維持している。

手の肌をすべてかき消せるくらい長かった包帯で、関節が完全に曲がらなくなるまで分厚く絞めあげたものの、しょせん布切れ、突然の衝撃には弱いらしい。


「あ、わりーわりー。いきなり来るから加減できなかったわ」

「……い、いや……俺も、悪い」


九が反省しているのは力加減の点に限り。

実際、先に手を出したのはたまきだし、痛覚が再発したのは自業自得だ。

ただ、その間に、周囲の九への視線が散ったので、たまきはすべてよしとする。


「つか、たまき、なんか傷増えてね?」

「……今さらかよ」


一貫してミケの話しかしなかった九が、ようやくたまきの状態に視点を移した。

輪郭のきれいな頬や額には絆創膏が貼ってあり、手足には右の人差し指と同じような処置をしてある。それらでは覆いきれない擦り傷や痣も何箇所か見受けられた。

見た目ほどひどくはなく、日常生活に支障はない。いつもの時間に登校できているのがその証拠。


「だいぶ派手にやったな。あ、まさかまたこの前のあいつらか?」


九の目が据わっていくのがわかり、たまきはあわてて手を振り、またイタタと痛みをこらえるはめになった。


「ち、ちげえよ。あいつらとはあれ以来会ってない」

「そ? ならいいけど」


つぶらな瞳がぱっと瞬く。

約束破ってたらどうしようかと思った、とやけに明るく歌う九に、たまきの内臓がリズムを取った。


「喧嘩売った? 買った?」

「えっと……売り買いというより、遭遇した、みてえな」

「あー、はいはい、ばったりパターンね。あるある。目ぇ合って即開戦で、スピード勝負なのよな」

「まあ……たしかに? 目が合っちまって、すぐにやんねえとって」


話は噛み合っているようで、噛み合っていない。たまきが故意的に仕向けたことだ。

本当のことを打ち明けたくなかった。

この傷が、車に轢かれそうになった野良猫を助けたときにできたものだと。

愛玩動物になんか興味なかったのに、ことあるごとに九がミケミケ言うから、つい猫に意識が向く身体になり、気づいたら道路に飛び出した猫を庇い、道路をスライディングしていた。おかげで全身ボロボロ。

要は、九の影響でこうなったのだと、そう伝えるのはなんとなく癪というか、気恥ずかしいというか。喧嘩のせいにしておいたほうが都合がよかった。


「相手、手強かった?」

「あ、ああ……土俵がちがうというか」


強いも何も、大型トラックだ。腕っぷしに自信があっても、ひとりではさすがに太刀打ちできまい。


「勝った?」

「勝ったといや勝った……か」


猫にもトラック運転手にもケガはなく、たいして騒ぎにならずに済んだ。たまきが体張った甲斐があった。


「男前になったな、たまき」


たまきの傷のない鼻先を、九は指先でつついた。

ちょん、と触れた点と点。

まだクリスマスではないのにトナカイのモノマネを始めたたまきに、九はまなじりをゆるりと下げた。


「そ……お……だ……っ」


そう言うおまえもだろうが!

と、たまきは対抗しようとしたが、口が回らず。代わりに、空の口腔をクワッと開け、九の指を噛む気で八重歯を光らせた。

おおっと危ねぇ、と九は颯爽と手を引き戻す。


「俺の手までやられたら、たまきの分の板書もやれなくなんぞ。いいのか?」

「え……」


たまきの口が無防備に開きっぱなしになる。

笑みを描く九は、メガネがないと妙に意地悪く見え、たまきは左手でピアスをいじりながら目を泳がせた。


「い、いや、別にいい。いらねえ」

「本当か〜? 今ならタダだぜ?」

「……。教科書読んでりゃ、だいたいわかる」

「え!? 読むだけで!? まじかよ! すっげー!」


小学生のテンションで俺も言ってみてえー! かっけー! と矢継ぎ早に褒めちぎる。

朝礼そっちのけで私語しているのがモロバレだ。幸い、先生は恐れをなして、面と向かって叱ってはこない。


「じゃあじゃあっ、この化学式とかもわかんの!?」


九はリュックから化学の教科書を引っ張り出した。折れ目のついたページには、今日扱う範囲が載っていた。


「ああ、これは……」

「わかんだ!? 教えて教えて!」

「……いいけど」

「まぁじ助かる!」


午後の健康診断について連絡事項が周知されるなか、堂々と内職を始める。先生の話よりもこっちのほうが急を要する。何せ、化学はこのあとすぐ、1時間目に設定されている。

たまきは椅子を右寄りに、九は机を左寄りに近づけた。

メガネがないと視界良好で、九はいつもよりすらすらと問題の意味を汲み取れた。


(このままメガネがねえほうが……いや! やっぱだめだ!)


実際、理解度向上はメガネの有無によらず、あくまでたまきの教えあってこそなのだが。

ガキンチョな思考はどんどん、どんどん、あさっての方向に走り過ぎていく。


(あのダテメガネは要る、絶対要る! 今日なんかすんげえジロジロ見られてるし。たぶん俺のキャラ崩壊にびっくりしてんだろみんな。俺の作戦、地味にうまくいってたんだな!)


顔面偏差値<実際の偏差値。

九にとって、容姿の善し悪しは体格に集約している。実用性を鑑みて、背が高いことに越したことはない。

したがって自己評価は、総じて“並”の判定。身長や学力に関しても相違ない。いやはや自分に甘いのか、厳しいのか。

ちなみに、ミケは“測定不能”である。かわいいは正義、かわいいは無限大。





図書室に隔離された自習室は、原則私語厳禁。

ミッションから解放された放課後であっても、その規則は揺るがない。

生徒には入学後のオリエンテーションで必ず教示され、そうでなくても規則準拠の掲示がいたるところにあり、知らぬ存ぜぬは通らない。

噂によると、三度注意された人は出禁になるらしい。


「あーもーだめだ今日。やる気出ねえ」


だとしたら、九は少なくとも10回は出禁になっていないとおかしい。


中央の席で宿題と予習を始め、そろそろ10分。

開かれたノートは、いまだ手つかず。

ペンより先に頭をつけた九は、何度目かのため息をついた。

何の妨げもなく麗しい顔を晒していながら、豚のようにブーブー文句を垂れる。


「……うるせえな」


見兼ねて注意に動いたのは、隣で教科書に目を通していたたまきである。

注意といっても私語にではなく、


「おまえがやろうって言い出したんだろ」


そのものぐさな進捗具合のほうだ。


自習室には例のごとくふたりしかいない。

見るからに事後なたまきの見た目に、生徒たちは50メートル走のときのように全力疾走。自習室がふたりの領分になるまで30秒もかからなかった。

司書の先生は図書室の奥にある作業部屋にこもってしまい、いよいよ規則は空洞化する。


いずれここは不良のたまり場として知れ渡り、私語厳禁の意味合いが歪曲していくのだろう。

しかし、その実態は――


「そんなんじゃ勉強教えてやんねえぞ」

「それだけは勘弁! たまきがいねえと俺やっていけねえよ〜……」


――現役ヤンキーによる、マンツーマンスタディコーチング!


体罰や宿題のやらせはもちろんなし。おまけに受講料もなし。

教え方が格別にうまく、そこらへんの塾よりよほど有意義で、優良な勉強会(九調べ)


大好評につき2回目の開催となる今回、受講生の九はちょっとぼんやりしているが、これがないとやっていけないのは比喩でも何でもない。


「……俺がいねえと、だめなんだ?」

「そりゃそうだろ!」

「……へえ、そうなんだ」

「そうだよ!! 本当にありがとうな!!」


九はなぜかキレ気味で礼を言う。勉強のモチベーション低下が、変なところに作用しているようだ。

前回コーチングしてもらった英語の宿題は、なんと満点。ビリからの下克上が実現可能とわかり、九はたまきの存在の偉大さを身にしみて感じていた。

これが無償で、レジ袋が有料?どうかしている、この世界。


「言葉だけじゃだめだ……なんか粗品を……あっ、また牛乳買ってこようか!?」

「いらねえ。その貢ぎ癖やめろ」

「たまきこそ、報酬を断るのやめろよ。人生損すんぞ」

「報酬て。仕事じゃあるまいし」

「似たようなもんだろ!」

「ちげえよ、俺は、ただ……ちょっと、ヒントを出してるだけで……。それに、人に説明したほうが定着しやすいし、そう、自分のためでもあるんだよ」


さりげなくやさしくて、かっこいい。モテ男のそれではないか。学年1位の肩書きが透けて見えるようだ。

なぜたまきの下駄箱にラブレターがあふれていないのか、九にはふしぎでならなかった。

A.不良だから――そうと知ったところで、元ヤンの九にはぴんとこないのだろう。


「……まあ今は、教える気失せたけど」


つんと尻の跳ねた茶目が、下方に突っ伏す九の頭を舐める。

九は歯がゆそうにごめんの3文字を極限まで薄く伸ばし、痰に絡めるように喚いた。


「んぐぐ……だって……!」


自習に身が入らないのは、ふたりしかいないプライベート空間だから。そんな生半可な理由ではない。事はもっと重大だ。


「さっきの健康診断で、俺……っ、身長1ミリも伸びてなかったんだ……!!」


大は小を兼ねる。その格言を外見の基準に適用している九にとって、これは非常に甚大な問題であった。

成長期真っ只中、週3でミケと牛乳を飲み、早寝はできていないにしろ早起きはがんばっている。それに何より、中学生から高校生にグレードアップしたのだ。ちょっとは期待してしまうものだろう。その気持ちが、制服や体操着のサイズにも表れている。


現実は、身長167センチ。ついでに体重53キロ。

どうりで代わり映えのない景色なわけだ。

努力は叶わず、期待は砕かれ、九の心はすっかり萎えてしまった。


「縮んでねえだけマシじゃん」

「けっ……身長でけえやつはこれだから……」

「……」


167センチの心、182センチ知らず。

ただでさえ満足していない身長で、退化が始まってしまえば、それはもう気力どうこうで済む問題ではない。

最悪の呪いだ。

このまま成長できないのかもしれない。身長も、頭脳も。


(あーいやだ、いやだ。今すぐミケに会って癒されてえ……。ミケを撫でたい。ミケを吸いたい。じゃねえと、俺、ずっと引きずっちまうよ……!)


英語の単語を組み替えても、数学の式を展開しても、現国の文章題を読んでも、頭によぎるのは、記憶に新しい診断結果。

卓上で今か今かと待ちわびているノートを、しらみつぶしに引きちぎってやりたくなる。167の数字を見ただけで発狂しそうだ。

そんなことをしている暇はないというのに。


「そうこうしてるうちに定期テスト始まっちまうぞ」

「うぇぇ」


みぞおちにクリティカルヒットしたように九は舌を出してえずいた。

そう、来月の今ごろには、早くも1学期の中間考査が始まってしまうのだ。

さくら高校は言わずと知れた進学校。テストの問題だけでなく在学生のレベルも抜きん出ており、みな勤勉で向上心旺盛、試験の志しも高い。

相手にとって不足なし! と言いたいのは山々だが、九はそこまで驕っていない。


獣医への道は遠く、険しい。発展途上な身体ならなおのこと。

新入生テストのときと同じ轍を踏まないためには、日々コツコツ進んでいかなければならない。


そうわかっている。九とてわかっているのだが。

それでも傷心モードから全然切り替えられなかった。


「はあ……もういいや」


九は両腕を机に向かってうんと伸ばした。それを降参のポーズと受け取ったたまきは、やれやれと教科書を閉じる。


「続き、俺んちでやんね?」

「……ああ」

「よーし決定」

「……ん?」


時差で言葉を呑み込んだたまきの横で、九は潔く荷物をまとめ始める。

たまきは焦って、包帯の目立つ右手で九の支度を制した。


「な、なに、なんで」

「俺んち、いや?」

「い、いやとかじゃなくて……」

「家のほうが時間を気にしないでいられんぜ?」

「そ、そう、かもだけど……」

「ミケにも会えるし!」

「……」


最大の理由はやっぱりミケ。君しかいない。

ミケは九の原動力。生きがい。はじめのキーマン。

ミケの顔をひと目拝めば、すぐにでも気持ちを入れ替えられる。

九はある意味、ブレない男である。


「……もしかして、おまえんち、不良のたまり場だった?」

「いんや? 今まで誰も呼んだことねえけど」

「え……なんで」

「なんで? んー、俺が家にいたくなかったから?」


家に呼ぶような間柄のやつはいなかったし、親がいてもいなくても、家は牢獄のようできらいだった。


(だけど今はミケがいる)


名前を呼ぶように鳴いて、そばにいてくれる。

たったそれだけで、あの無価値な箱は帰るべき居場所になった。

ずっと守っていきたい。その想いが、九を真っ当に生かしていた。


「……俺は、いいのか」

「うん?」

「その……家に、上がっても」

「うん」

「なんで」

「えー? 別に理由なんか……」

「なんで。理由。言え」


なぜなぜ期の子どもみたいにせがむたまきに、根負けした九は仕方なく潜在意識に問いかけてみる。


「あらためて聞かれるとなあー……」


うっすら思い描くのは、耳としっぽを振る、愛らしいシルエット。

ミ、と発音しかけ、たまきがわざとかぶせて言い当てる。


「ミケに似てるから」

「おっ!」

「……とか言うなよ」

「は? なんで」


今度は九が理由を問う番だ。


「……聞き飽きた」


それだけボソッと吐き捨てられる。

九はリュックを締めながら、椅子をゆりかごのように揺らした。


「つってもなあ、それ以外ねえしなあ」

「……猫に似てるってなんだよ……」

「なんだろうな?」

「本人にもわかってねえのかよ……」


たまきはふてくされてそっぽを向く。

その様はまさに、今朝メガネを奪ったミケと瓜ふたつだった。

九の表情にやさしさが染み込んでいく。


「一緒にいたいって、思うんだけどなあ」

「……え?」

「一緒に……」

「……一緒に……?」


――一緒に、働きませんか?


不意に九が口走りかけたのは、とあるキャッチコピーだった。


「あああっ!!」


それは金曜の放課後に見つけた、駅前のコンビニの求人ポスターの謳い文句だ。

思い至るやいなや、九は野太い奇声を発して跳び起きた。


「やっべえ! 忘れてた!」

「な、何……?」

「今日バイトの面接あったんだった!」

「バイト?」

「そう! 駅前のコンビニで!」


そうだそうだ、求人を目にして速攻で応募したのだった。

はじめて面接までこぎつけたというのに、健康診断とかいう厄災にまんまと見舞われ、身長の記録以外何もかも抜け落ちてしまっていた。


九は室内の時計を確認する。

現在の時刻、午後3時55分。

面接の予定、午後4時30分。

セーフ、一命を取り留めた。だが、悠長にはしていられない。


「ちょっくら行ってくるわ!」

「じ、自習は……」

「また今度! 頼む! じゃっ!」

「……はあ。今度、ね」


善は急げ。九はリュックを腹に抱えた状態でスタートダッシュを決める。自習室を出るあたりで、翼を羽ばたかせるようにリュックの持ち手を振り回し、背に担ぎ直した。

その拍子――カシャンッ、何かが図書室と自習室の境目に落ちた。

安っぽい光を反射させた、丸型のガラス。バケツ塗りされた染色。

ミケに取られたと言っていた、黒縁のメガネだった。



――キュゥッ!


どこからか呼び止められた気がして、九は校門の外で振り返った。

西日の照りつける電柱の上で、真っ黒い影が泣いていた。

なんだ、カラスか。九は何ごともなかったかのように走り出した。その背中に乗るリュックが、数十グラム軽くなっていることは、知るよしもなく。


優等生のキャラ付けに役立つダテメガネ。

それは今朝、家を出発する目前。たまきのケガが治っているか気にしていると、ミケが美しい高飛びを披露するついでに振り落としたはずだった。

メガネはミケがくわえていったところで、九の認識は止まっている。

実は、この話には続きがあった。

ミケがまるで悔いるように、玄関に置いていた通学用リュックにそっとメガネを仕舞っていたのだ。


九の知らないイタズラは、きっとまだあるだろう。たとえば、クローゼットの中の服が破けていたり、ピアッサーを猫用トイレの隅に隠していたり。

九のやることなすことにたまきを始めクラスメイトが翻弄されているように、九もまた、ミケという未知数の生命体に引っかき回されていた。

でもどうせ、かわいいからすべて許してしまうのだ。


(ミケ、ごめんな、もう少しだけ留守番がんばってくれ。俺は今からひと勝負やってくっからよ!)


勝負に勝ったあかつきには、キャットタワーを買ってやろう。

決意を固め、九は人通りの多い駅に馳せ参じた。


駐輪場のある駅前の小道に入ると、ひときわ大盛況な店がある。最寄りにある男子校の学ランを着た生徒がこぞって押し寄せている、あの店こそ、あと15分後に面接タイマンする会場。全国チェーンのコンビニである。

自動ドアが閉まりきらぬうちにまた開き、聞きなじみのある陽気な音楽がヤクにハマったように乱発される。


九は店前で一旦リュックを下ろし、履歴書があるか確かめる。金曜の夜にクリアファイルに保管したときのまま入っていて、ほっと息をついた。

スマホで時間をチェックしつつ、ロック画面のミケで邪心を払う。健康診断とか身長とか167センチだとか。ツンデレな愛猫の写真で、キュンとお清め。

一部ガラス張りになった店の壁で、簡単に身だしなみを整える。シャツの襟を正し、自前の顔面を近距離で凝視する。なんだか物足りない。


「やっぱメガネなしじゃ、勝率下がっちまうかな……」

「うわ、まじでいんじゃん、西の辰炎」


せめて七三分けはしっかりやっておこうと額にへばりついた前髪を手ぐしでかき分けていると、短いメロディーをバックに横やりが入った。

学ラン集団を引き連れてコンビニを退店した黒マスクの少年が、九の顔に目玉が釘付けになっている。

くたびれた学ランとロールアップしたズボン、前髪を逆立てたツーブロックの髪型。ぺたんこのスクバには、金属バットのグリップ部分が不自然に飛び出していた。


九の元ヤンセンサーが作動する。

同族の臭いがぷんぷんした。


「その制服……ガチでさくら行ってんじゃん。不良やめたのって、高校デビューのためだったんか。草」


1年前からめっきり耳にしなくなった「西の辰炎」の異名に、学ラン集団がざわつく。その隅っこで、必死に息を押し殺している少年を、九は目ざとく発見した。妙にめぐりあわせのある茶髪とそばかす。亮と呼ばれた、あのいじめっ子だった。

東の金鬼と西の辰炎、あのふたりがさくら高校にいる。

その噂を流したのは、他でもない、亮だ。

いじめの続きや九に脅された腹いせでは断じてなく、むしろ九の言いつけを守るためにやったことだった。


――あいつはもう俺のもんだから。手ぇ出すなよ。


誰も手を出すことがないように。

二度と関わらないように。

警鐘のつもりで、自分と近しい人間に情報を渡した。


そのうちのひとりが、黒マスクの少年。亮の入部した野球部の部長だ。

亮の学校の部活は、ガチ勢が極端に少ない。野球部も大学で言うところの飲みサーで、試合記録はほぼゼロに等しく、四六時中遊んでいる。そんなところの部長なんて当然名ばかりで、後輩に教えることといったらもっぱらきわどい火遊びだった。

そんな人だからこそ抑止したくて公表したのだ。


しかし部長はかえって焚きつけられ、西の辰炎を探し始めた。そして、あろうことか鉢合ってしまった。

今日に限ってメガネをしていない九を、亮は恨みがましく思うが、九のシラケた視線がトラウマをジクジクほじり、たまらなくバツが悪い。


(すみませんすみません……! 復讐とかじゃないんです! ほんと、たまたまというか、運命のいたずらというか……。ちくしょうっ、なんで俺ばっかこんな目に……!)

(……あいつ、何してんだ?)


みるみるあとずさり、うしろ歩きの状態で店内に下がっていった亮に、九はただ取るに足らず、呆れているだけだった。

部員が1名、自発的に行方をくらませるなか、部長の関心は、九の悪魔的な美貌に絞りこまれていた。


「2年前、おまえが殺ってくれたこと、忘れたとは言わせねえよ」

「は? 誰」

「……っ、と、とぼけんなよ。西の河川敷に俺を沈めたのはどこのどいつだよ!」

「へえ、あんた、俺に負けたんだ?」

「負……っ、ち、ちげえよ、あれは、おまえに勝ちをゆずったんだ!」

「意味同じだしどっちでもいいけど。負かしたやつの顔、いちいち覚えてねえよ。年表暗記したいし」


黒マスクの下でフガッと鼻腔がひしゃげる。


「ま、まあいいさ。おまえが忘れてても、俺が積年の恨みを晴らせばいい」


(ひと勝負するとは言ったけど、こういうことじゃねえんだよなあ)


勝手にそういう雰囲気にさせられているけれど。

バイトの面接をひかえる九にはもちろんその気はない。面接の予定がなくても、足を洗った身だ、もう拳は振るわない。

この手は、家でミケを抱きしめるために使いたい。


(ミケのこと思い出したらすんげえ会いたくなっちった。うわー、でもなー、こいつら邪魔だし、面接はすっぽかせねえし……。くぅ〜……これがジレンマってやつか?)


別の意味でぎゅうっと拳を握りしめる。

横目に、教室で見たことのある顔ぶれが、そそくさと通り過ぎていった。その中には、たまきや亮と中学が同じ男子も混ざっていた。

九と目が合うと、他人のふりをして目を逸らされる。


(あー……)


九は耳上の髪を刈り取るように両手でこめかみあたりを引っ張った。

堅苦しく調整したヘアスタイルが、みだりに荒れていく。


(キャラの解釈ちがいで、俺だって気づかなかったのか)


九の憶測は、たいてい冷静にぶっ飛んでいる。

学校では優等生キャラでやっているから、不良っぽいやつと一緒にいたら別人だと思うのも無理はない。もしくは、ふつうに視力が悪く、健康診断の結果に抗議しに行くのか。それなら自分もお供させてほしい。

そんなふうに大変無理のある根拠を並べ立てては、意気揚々とクラスメイトに手を振ろうとしていた。

幸か不幸か、部長がカバンから抜き取った金属バットで、九とクラスメイトの間に一線が引かれた。


「……ここっていつから治安悪くなったんだっけ?」


クラスメイトは九に気づかない――ふりをした――まま、駅構内に入っていってしまった。


「東の金鬼と西の辰炎、おまえらのせいだよ」

「東の金鬼――ああ、たまきのことね。……あ? 俺らのせいってこと?」


一拍遅れて理解し、九はかすかに殺気をにじませる。


「責任転嫁はよくねえな」

「せ、せきにんて……?」

「あは。頭よくてごめんな雑魚」

「くっそ……! 相変わらず生意気だなクソチビ」

「チビ言うな、殺すぞ」

「お高くとまった今のおまえに殺れんのか? ああ゛!?」


無鉄砲にバットが暴れ出す。

部長のうしろに群がる下っ端たちも加勢し、辺りはあっという間に殺伐とした戦場と化す。先んじて亮が店内に避難したのは英断だろうか。

九はバットの動きを的確に読みながら、ぶつかり稽古を実践してくる学ランの連中をいなしていく。


「おらおらっ! 受け身ばっかでいいのかよ! 西の辰炎さんよぉ!」


煽ってくるわりに攻撃は単調で、統率も取れていない。逃げるだけなら楽勝だった。

だけど今日は、逃げるに逃げられない。バイトの面接まで、残り10分を切っていた。

ようやく見つけた働き口候補を、しょうもない理由で失うわけにはいかなかった。

とはいえ、手を下さずに10分で片をつけるとなると、番長経験のある九でもさすがに楽勝ではない。自ら防戦一方でい続ける限り、解決の糸口は見えてこない。


(攻撃に転じるしかねえのか? でも……俺は……)


なぜバイトがしたいのか。

なぜさくら高校にいるのか。

なぜ不良を卒業したのか。


ミケの鳴き声が、鼓膜をノックする。

遠い彼方から呼びかけられた気がして、九はコンビニの入口前で振り返った。


「――九っ!」


これも、ミケ? いいや、ちがう。

それにしては、低く硬く、力強い。


九の視界に飛びこんだのは、陽の光をふんだんに吸いこんだ、鮮やかな黄金だった。


「た、たまき!?」


いつになく動揺の色を露出していた。

駐輪場前に現れた、あのビックな出で立ち。どこからどう見ても、東の金鬼と謳われるたまきだ。

多勢の敵を一瞬で上回る存在感。あまつさえ九はすべてを忘れてたまきのほうに駆け寄っていく。

その隙に部長は野球ボールではなく手持ちのバットを振りかざした。ろくに練習していない投球フォームは、ヨボヨボで見るに堪えない。

勢いよく投げ飛ばされたバットは、当然ノーコンで、軌道は九を越え、九の向かう先のたまきを狙っていた。


九の頭上をバットが横切っていく。

トップの髪がしゅんっと下方に萎えていく感触に、九の心身に、昼休み前に身長計に乗った記憶がぶり返す。

ブチッ。血管が切れる音がした。

わざわざ九の上を通っていくバットの柄を、九の手がすかさずつかみかかる。バットの速度に乗って九はその場で二回転し、ぐっと足腰を踏ん張ると、ホームランを打つ気概でバットを手放した。


「うわああっ!!!」

「みんな避けろ……!!」


敵の包囲網が一気にバラけた。

東の金鬼まで乱入したことにより、返ってきた矛の範囲外にいる少年たちも散り散りになっていく。


九がたまきの無事を確認すれば、ちょうど背後に忍び寄っていた部長が目に留まった。

中腰でがんばって来た部長は、ギクリ、と腰を引かした。


「ぬぁっ!?」

「は?」


移動途中だった部長の足は、地味にたまきのいる方角を指していた。

前髪がぱらぱらと垂れた九の顔に、深い陰影が落ちた。


「く、クソ……!!」

「……チッ」


やむを得ず真正面から殴りかかる部長に、舌打ちが降った。たまきの十八番ではあるが、今回はたまきではないことは言うまでもない。

九の瞳は闇の中にあった。

部長が仕掛けた直球の拳が、九に届くことはなかった。それよりうんと速く、九の渾身のパンチが黒マスクにのめりこんでいた。

白目をむいて倒れていく敵の末路に、ハッと九の目にハイライトが戻った。


(あっ、やべ)


あとになってジンジンと伝う痛み。

骨と骨とがきしめいた生々しい衝撃が、少しばかり尾を引いた。

1年ぶりの懐かしい感覚。腕は鈍っていなかったものの、ひどく具合が悪く感じた。


いや、やってしまったことはもうしょうがない。

九は開き直るのが早い。緩慢な歩みでたまきに接近した。


「なんでたまきがここにいんだよ」


やけに泰然としている九に、たまきはやや面食らいながら、肩を大袈裟に下ろした。


「……九を、探しに来たんだよ」

「へ?」

「これ、忘れてったから」


そう言ってカバンのポケットから出されたのは、紛れもなく、九のお気に入りのダテメガネだった。

ここにあるはずもない物、ましてやたまきが持っているなんて摩訶不思議で、九は近くにミケが隠れているのではないかとキョロキョロする。駐輪場に猫が数匹いたが、我が子ほどべっぴんさんではなかった。


「え! え? なんでこれたまきが?」

「さあ? 自習室に落ちてたぞ。リュックのどっかに引っかかってたんじゃねえの?」

「うわあーまじか、やられたー」


ククッとこらえきれなかったように九の喉仏が小躍りする。

九はレンズを夕日にかざしながら、おもむろにプラスチック製のつるを耳にかける。

文化財となり得る宝石に、真っ黒なヴェールがかかったように、天然の輝きがあますところなく秘められた。


「ありがとうな、たまき!」

「べ、別に……」

「気づいてくれて助かったぜ。これでバイトの面接いける!」


それでも、メガネの反射だろうか、たまきはまぶしくて瞼を伏せた。

コンクリートの地面に、汚れた学ランが伸びている。

九の右の手に消えずに残る拳ダコにも、夕焼けの色が伝染うつっていた。


「九、おまえ……」

「ん?」


たまきの視線が慎重に九の元に引き返していく。


「殴ったりして……その……よかったのかよ」

「ああー……へへっ」

「へへっじゃなくて」

「うん、よくはねえんだけど」

「……」


いつもと何ら調子の変わらない、軽快な声色。それがよけいにたまきの胸を締めつける。

包帯を巻いた指にいやな痺れを覚えた。


――あ、今はちげえよ? ミケのこと守らねえとだし。


以前、九はきっぱり断言していた。

過去は過去、今は今。自分の中でけじめがついていた。

たとえ身体に不良の血が流れ続けていても、その小さな手は、もう、人を傷つける道具ではないのだ。

それを使わせてしまった罪は重い。平凡な一般市民を喧嘩に巻き込んだも同然だ。

ごめん、と言うべきか、言っていいものなのか、たまきの薄膜の唇は震えていた。


「でも体が勝手に動いちまったんだよ」


ふと巻き起こる風が、金髪についてきていたひとひらのハートを攫った。

たまきが言いかけた3文字も、ともに連れていかれてしまった。


「守んなきゃって」

「……え?」

「たまきのこと。守らなきゃって思って」


九は手を閉じたり開いたりしながら、ふっ、とおかしそうに一笑する。

どこかで猫が歌っていた。


「変だよな、たまきもけっこうやんちゃしてて、強ぇはずなのに。この間も喧嘩に勝ったって言うし」

「あ、いや、それは……」


絆創膏をはがすようにたまきは顔を掻く。

でもさ、と九はつぶやく。メガネの縁をかすめる頬を、くすぐったほうにゆるめた。


「俺が思ってるより、俺……たまきのこと特別に想ってたっぽいわ」


メガネの影に紛れ、ひっそりと、九の頬山に桜が咲く。


日が長くなってきた、春。

たまきの背よりも高いところから注がれる陽射しは、どんな些細な彩りの変化も際立たせた。


「俺も……俺だって」


たまきは九を見つめた。

よく磨かれたレンズの表面が、万華鏡のようにきらめいていた。

九がどんな目をしているのかは見えなかった。けれど、その色、形、温度まで、たまきにはわかる気がした。そして、自分もきっと同じであろうことも。


――一緒にいたいって、思うんだけどなあ。


さっき、本当は、たまきも思っていた。

もう少し、あと少しだけ、と。

そうでなければこんなところまで追ってきたりしない。


(九の飼い猫には感謝しねえといけねえかもな)


心音にかき立てられ、たまきの目尻に赤みが点す。じわりとこみ上げた水気を、気取られないよう拭った。

人間にしっぽがなくてよかったと、つくづく思い知る。


たまきは凛と背筋を伸ばした。

たしかな一歩で九の前に躍り出る。


「九、下がれ」

「え?」

「あとは俺がやる」


道の両脇で身構える野球部の少年たちを全員、たまきは視野に含めた。

ブレザーとシャツの袖を合わせてまくれば、肌の代わりに綿混紡の包帯があらわになる。試しに手首を回してみた。ポキポキと音は鳴るが、痛みはたいして感じない。いける。


「い、いやでも、俺に売られた喧嘩だし」

「おまえはやめたんだろ、こういうこと」

「……ま、まあ……」

「じゃあ俺に任せろよ」


ブリーチをして傷めた髪、体中にこじ開けた穴、絶えず蝕む傷――ここにいるのは、現役で名を馳せるヤンキーだ。


なりたくてなったわけじゃないし、やめるにやめられず、なあなあで済ませてきてしまったけれど、たまきは今、はじめて、胸を張って言える。

良い子じゃなくてよかった。

散々うしろ指を指されてきた、ふつうではないらしいワルな部分が、誰かのためになるなら。

九のために、生かせるならば。


(いいよ、やってやるよ、鬼だの何だの好きに呼べ)


綿貫たまき。

かつて隣の地区の東側を牛耳った喧嘩番長であり、現在さくら高校で首席という名の王座につく、孤高の帝王。

人呼んで、東の金鬼。

誰が名付けたのか知れない、失礼極まりない二つ名を、受け入れられる日が来るとは、ゆめゆめ考えられなかった。


(やっと見つけた。俺なりの、がんばれる理由)


覚悟を決めた男の拳は、岩をも砕く強さを持つ。

二度三度振るっただけで、部員たちは絶叫しながら駅のほうへ逃げおおせた。元より部長に従っていただけで、戦意は皆無。なのに東西の二枚看板が出揃ってしまい、情状酌量してもらえないか泣きべそをかいていたのである。

逆に、コンビニで雑誌を立ち読みしてやり過ごそうとしていた亮は、捨て置かれた部長の後処理に頭を悩ませるはめになった。


奇跡的に面接時間きっかり、午後4時半。

九はたまきに送り出され、七三メガネの優等生スタイルで店長との面接に挑んだ。


「はじめまして、俺、いえ私は、灰田――」

「すみません不採用で」


開始後、わずか3秒。

店前の一部始終に、スタッフが警察を呼ぶ一歩手前まで騒いでいたらしく、勝負にすらならず、九は丁重に店を追い出された。

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