友だちとそれ以外
登校時間のピーク。
ハズレ枠で話題の1-Aに、その原因、東の金鬼こと綿貫たまきが出現した。
戦う、挨拶する、逃げる。1-Aの生徒に、3通りのコマンドが浮かぶ。
朝っぱらから鬼の形相のたまきに、満場一致で「逃げる」を選択。たまきの進むところ、モーセのごとく勢いで空いていく。
あからさまな避難体制に、たまきは舌打ちのひとつやふたつ、みっつはくだらないと思われたが、そもそも眼中にもなかった。
たまきの意識は、一点集中。窓際にいるターゲットを、ロックオンしていた。
「おい九テメェ!」
ッダァン! 渾身の力でターゲットのホームが叩かれた。教室の前方廊下側の列から数えて24番目、灰田九の席が。
きっちり7:3で前髪を固定した九は、おっはー、と肘をついた手を楽に上げて応じた。たまきの顔は佛々と赤らむ。これでは金鬼ではなく赤鬼である。
廊下に一時撤退したクラスメイトは、教室の小窓や扉からハラハラと戦況を窺った。
(つ、ついにおっ始めちめる気か……!?)
(ふたりとも昨日まで仲良さそうにやってなかった!? 記憶ちがい!?)
(校舎裏に呼び出し? それとも昼食のパシリ?)
(まさか日頃のストレス発散にサンドバッグにする気では!?)
(俺たちのヒーローが……!)
(今日は金曜日、1週間の締めくくりなんだから、穏便にいきたかったのに)
(僕たちにできることはないのか?)
(と、と、とりあえず、こういうときは素数を数えて落ち着こう。2,3,5,7,11,13……)
(え……てか今さらっと名前呼んでなかった?)
均衡が崩れる気配がした。
ふたりのでこぼこな距離感を、クラスメイトは寿命の縮む思いで測る。昨日の反省を経て、それぞれ手近のボールやバット、肩にかけたままのカバンを腹の前にかまえていた。何かあれば助太刀に行く――ワンフォーオールの精神を一端に掲げて。
芽吹きつつある小さな灯火をよそに、九は怒号スタートの会話を平々凡々と日常へ舵を切る。今日提出の英語のプリントを帆に。
「なあたまき見てこれ、夜中に解いてみた」
「あ……ああ、昨日のプリントな、最後の記述よくできて……ってちげえよ!」
ナイスノリツッコミ。
鬼の面から一気に人間らしさがあふれ出て、奇しくも周りの警戒がややゆるむ。
「九、おまえ昨日、亮たちに会ったそうじゃねえか」
「あ、そのことか。そうそう、あいつらに話を通して、人間関係解決しておいたぜ。たぶんもうあいつら絡んでこねえから安心しな!」
九はブイサインを前面に出した。たまにはお節介役も悪くねえな、と昨日の爽快感になお浸る。
そう言われても、たまきは小難しい顔つきのままだ。
「話って、具体的には」
「ん? たまきに手ぇ出すなって」
「それだけか」
「うん、そんな長話はしてねえよ。たまきは俺のだから手を引け的な感じでちょちょいっと」
それだ。
たまきはとっさに九の両肩をつかみかかった。廊下に悲鳴が反響する。
「九……俺のために働きかけてくれたのはありがてえが、その言い回しはどうにかなんなかったのか?」
「え? 言い回し?」
「俺がいつ九のもんになったんだよ!!」
エコーがかかりそうな、無駄に響きの良い訴えに、クラスメイトの顎という顎がそろって外れかかった。
やっぱり九呼びになっている、が、そんなことよりも。
(俺のって何!? プロポーズ!?)
(舎弟宣言!?)
(てか舎弟になんのそっちなんだ!?)
(いつの間にそんな進展を!? 私、1話見逃した!?)
(昨日言いかけてたことって、もしかしてこのこと?)
(なるほど……平凡メガネ攻め、ヤンキー受けね)
(灰田くん、やるなあ……)
(下に見られたことに怒ってたのか? いや、照れてるようにも見えなくはない、かも……?)
(詳しく教えて! kwsk)
考察が捗りすぎて、思考回路に子音だけが先行してしまう。
誰も彼もネクタイをゆるめ、胸を押さえる。動悸がした。その一過性の症状は、一概に恐怖によるものとは言いがたかった。
九が頬杖をついて首をこてんと傾げると、たまきまでもがシャツの開けた第二ボタンを鷲掴みにした。
「え、だめだった?」
「だっ……」
たまきは自身の言葉にむせた。シャツをボタンごと絡め取る拳で、ドンッドンッと強めに胸上を叩く。
(だめじゃ、ねえけど……っ)
熱い。
1-Aにだけ残暑のような熱風が漂っている。
手に汗握るクラスメイトの数人は、たまきと同様、首から上にほのかな赤みを散らせていた。
汗で滑った護身用のあれやこれが、カラン、コロン、廊下を横転する。
渦中の九はというと、のんきに花見をするみたいにたまきのほうを見上げていた。
「だめってどこらへんが?」
「だ、だめっつうか……その、ご、語弊が……」
「ごへい? ……あー語弊? でも何も間違ったこと言ってなくね?」
「へ」
「たまきは俺の、大事なキーマンだからな!」
「キッ……!?」
説明しよう。キーマンとは、特定のプロジェクトを進展させる重要人物のこと。この場合、将来獣医になるために必要なサポートキャラ、という意である。
九としてはこれ以上なくしっくりきた表現――昨晩英語の勉強をがんばった成果を実感する――だが、俺のもの発言のあとでは、いかようにも誤解を加速させた。
「キーマンって、な、ど……え?」
あの百戦錬磨のヤンキーでさえ、こじらせた乙女のような動揺っぷりを見せる。
「俺の人生に欠かせない存在。それがたまき」
「え……っ」
「――と、ミケ!」
「……、え゛」
たまきの声のトーンが数段階下がった。
また出た、噂のミケ。
プロポーズめいたセリフにテンションブチアゲハイスクールな生徒たちも、突然の本命登場にガン萎え待ったなし。
あちこちで首脳会談並に熱い握手を交わしていたが、続々と腕をクロスしていく。
だめだろう、二股は。不良でなくとも怒って当然。別に告白と決まったわけではないけれど。
クラスメイトが知らず知らずのうちに、はじめてたまき側についた。まさに歴史的瞬間。
だというのに、当の本人は、せっかくの熱視線よりも目の前の無邪気な笑顔に目が離せない。睨むので手一杯と言い換えてもいいだろう。
自分と同列に並べられた「ミケ」のことで頭がいっぱいだった。
「チッ……いったい何なんだよミケって」
「そういや、昨日結局見せなかったんだっけ、ミケの写真」
しょうがねえなあと言いながら、九はにっこにこでスマホのロックを解いた。
「やっぱ気になんだ?」
「……」
「まあそうだよな。そうだよな!かわいいもんなあミケ」
「……いや知らねえし」
「なんとなくわかんだろ?」
「俺そこまで人間やめてねえわ」
「あー残念」
「は?」
ふつうにディスりかと眉山の標高を隆起させるたまきに、九は負けじと口角の筋肉をパンプアップさせた。
「これ見たら、人間、やめたくなるぜ?」
ブルーライトを浴びたレンズが、妖しくぎらつく。
「ジャーン! 撮りたてほやほやの、ミケの新規写真!」
スマホの画面をたまきに向けた。
画面いっぱいに拡げられたのは、一枚の写真。
全体的に白っぽく、それでいて先天的な痣のような色が、だらんとした腹に際立つ。どこか拗ねたようにつんとすました顔をしていながら、計4本の手足は内側にすぼめられている。
ちょっと間抜けで、たしかにかわいらしい画。
だがしかし、画角上部にぎりぎり収まっている耳は、膨らみを帯びた二等辺三角形。下部のほうで切れているケーブルのような白線は、両足の真ん中、尾から伸びていた。
「……え……ね、猫……?」
それは、たまきが思っていたジャンルのかわいさではなかった。
抜き足差し足忍び足で室内に加勢しに来たクラスメイトは、途中でぴたりと静止する。
(え?)
(根っこ?)
(年号?)
(ねこ?)
(猫?)
(って、あの猫?)
(泥棒猫の隠語ではなく?)
(Catのほう?)
(ミケが?)
まあ猫っぽい名前だもんね、と危うく納得しかけたものの、あの話の流れで猫がオチになる展開に、やはり感情が迷子になる。
二股ではなかったことに安堵すればいいのか、猫なんかい! とツッコミに行けばいいのか。はたまた、猫の尊さを熱弁すべきか、犬派で対抗してもいいのか。
IQだけでは対処できない状況。
正解がない問題ほど難しい。
ミケの写真を直視する学年首位も、手どころか表情筋をも止めていた。
(まさか……三毛猫の「ミケ」?)
ご名答。持ち前の頭脳があらぬ方向で稼働している。
よけいなことを考えていないと、よけいなことを口走ってしまう予感があった。
今のたまきに様相まで気を使うキャパはなく、呆けた顔でずっと九のスマホと向き合っている。
そのリアクションこそが、九の予想どおり、そして期待どおりだった。
(うんうん、わかるぜたまき。ミケがかわいすぎて殺られちまうよな。わかるわかる。まじ人間やめたくなるかわいさ。ミケってすごい、ソーグッド、ワンダフォー)
九はイキって足を組み、宿題で使った英単語をつぶやく。
(おやおや、周りのみんなも流れ弾食らってねえか? やべー、ミケのかわいさ全世界にバレちまうよー。写真集のオファーとか来ちゃったらどうしよう。金稼げんのはうれしいけど、ミケが売れっ子になったらちょっと妬いちゃうなー)
妄想ではなく、本気でそう思っているところが、九の長所であり、短所でもある。
どれだけ知識を詰め込んでも、元の単純な構造は変わらないようだ。
・
入学式、オリエンテーション時に使われた体育館を、本来の用途で活かすときが来た。
そう、体育の授業である。
今朝のミケ騒動をランチとともにほどよく消化した、5時間目。
通常授業での第1回目の体育。2クラス合同で、男女に分かれて行う。前半はさくら高校流の準備運動をレクチャー、後半は体力測定の練習に充てられた。
樹木から滴る蜜のような色味をした、長袖長ズボンの体操着が、まっさらな匂いをなびかせ、体育館中をうごめく。
来週に健康診断が控えているためか、特に女子生徒が張り切って運動していた。
かと思いきや、先に盛り上がりを見せるのは、男子生徒のほうだ。
「おおー!!!」
「握力70!?」
「まじかよ!!」
歓声が上がったのは、ステージ前。
平均以下の体格の少年が持つ握力計に、高校1年生の平均を優に超える結果が反映されていた。
体操着の袖が余って、いわゆる萌え袖になっている手元からは想像できない、アスリート級の数値。
周りの男子は金メダルを扱うようにその握力計に触った。
「やるじゃん灰田!!」
飛び抜けた実力を何気なく披露したのは、何を隠そう、九である。
体育の授業でも変わらないヘアスタイルとメガネ。おまけに、明らかに今後を見据えてワンサイズ大きいのを選んだ体操着によって、ダサさに磨きがかかってしまっている。にじみ出される陰性のオーラに、100人中100人が運痴に一票投じるだろう。
名門さくら高校では運動より頭脳派なタイプが相対的に多く、むしろ運痴は多数派ともいえるが。
どうだろう、握力計に表示されているのは、間違いなく「70」。へたしたらりんごを丸ごとつぶせてしまえる力だ。
第一印象をくまなく裏切る九は、握力に留まらず、次々と学校の新記録を樹立。周りからダークホースとして騒ぎ立てられた。
「灰田、運動部入ったら!?」
「君がいれば百人力だろう!」
「先生ってたしかサッカー部の顧問でしたよね? 今からスカウトしたほうがいいんじゃないですか!?」
クラスメイトの男子が、サッカー部顧問でもある体育教師に九を推す。
九の経歴を知る教師は、微笑ではぐらかした。偶然にも、九自身もまったく同じ反応をする。
(いやあ、部活なー。部活もいいけど、俺にはやってる暇ねえなー。毎日忙しくて。勉強とか、バイト探しとか、ミケとたわむれたりとか。はー、充実してるわ、俺の高校生活)
鼻の下の伸びた笑みが、ふっと不敵に締まった。
(でもよかった〜、この調子ならポテンシャルだけで体育はクリアできる。喧嘩で筋肉鍛えた甲斐あるぜ。過去は無駄じゃなかった。俺の血となり肉となり、そしてやがては成績となり権威となる! 体育サイコー!)
現役だったなら確実にたまきをおさえてさくら高校の番長になっていたであろう。桁違いの記録がそう物語っている。
次に練習する種目、ハンドボール投げも、九は最高得点である10点を取る気満々だった。
けれども、人々があちこちに点在する現状では、ルールどおりに実施しては、負傷者を出す危険がある。今できることといえば、体育館の奥行きの広さを利用し、遠くに飛ばす練習くらいであった。
わざと少し空気を抜いたハンドボールを、九は満点の握力でつかむ。
体育館ステージ側の壁際に移動し、対局側の壁と天井を展望した。
(壁に直球で投げれば……跳ね返って危ねえかな。高さで距離稼ぐ練習でもするか? ……天井の隙間に入っちまいそうだな)
だめかな、まいっか、でもな……。
何度目かの思考の循環の末、こういうときは他人の意見を聞こうと思い至る。
「ボール、前と上どっちに投げたほうがいいと思う? なあ、たまき」
「……俺に聞くなよ」
ちょうど近くに、サボっているたまきがいた。
九の輝かしい活躍の影に隠れ、気配を押し殺すように隅で時間が過ぎるのを待っていたようだ。
にぎやかな授業のムードへの、たまきなりの配慮だ。
「俺にかまわずに好きにしろ」
「好きに……そうだな、そうする」
「……」
「上に投げるわ俺!」
好きにしろと言ったのは、何も好きなほうを選べとアドバイスしたわけではない。
「隙間狙いにいったほうが楽しいし、被害も少ねえし。それにもし天井にはさまったら、背ぇ高いたまきに取ってもらえるもんな! うん、上だ、高さ勝負だ」
「……昨日小せえっつったこと、まだ根に持ってんのか?」
「ん?」
「……いや」
半端丈のズボンをまとう長い脚が、静かにそっぽを向いた。
「たまきも一緒にやるか?」
「え?」
俺にかまわずに、と言ったそばから、九はたまきを練習に誘う。やっぱりさっきの言葉をちゃんと通じていなかったらしい。
返事も待たずにボールをもうひとつ持ってこようとする。
「お、俺……」
たまきはなぜか強く拒否できなかった。
強烈な引力に引き寄せられるように、九の持ってきたボールに腕が伸びていく。
「――危ないっ!!」
不意に甲高い声が体育館に反響した。
注意喚起はステージ側に飛ばされていた。九の手にあるものと同じ、ハンドボールも一緒に。
壁に勢いよく体当たりしたボールは、九とたまきのいる隅へ跳ね返った。
びゅんっと空を裂いて迫るボールに、たまきは目を見開いた。
目の奥にじわじわと鈍痛が押し寄せる。
痛みでよみがえる、小学生のころの悪しき記憶。
体育倉庫で亮ら数人から一斉にボールを当てられたときのことだ。近距離からぶつけられるボールは、たとえ受け止められても衝撃が凄まじく、骨の髄まで痛みが響いた。
やめてと言ってもやめてくれず、泣いたら笑われ、片付けも進まず、結局次の授業に遅刻した。亮たちは先に教室に戻っていて、怒られたのはやっぱりたまきだけだった。
(ああ……もう、忘れたと思っていたのに)
脈が遅くなっていく。そのせいか、周りの時の流れも鈍く感じ、ボールの軌道を明瞭に捉えられた。
八つ当たりするみたいに利き手で思い切りボールを打ち払った。人の顔をビンタしたときを彷彿とさせる感触と音が広がる。人差し指に電流に似た刺激が走った。
苦味のたまる舌先で顎裏をこする。チィ、と小鳥の鳴き声のような弱々しい音が出た。
ボールはふたたび壁にバウンドし、威力が相殺される。なめらかな弧を描きながら、たまきの手元に着地した。
「おお〜お見事!」
九はたまきの計算された技を褒めそやしながら、内心で自分のことも褒めていた。前ではなく上に投げる選択した自分は正しかった、実にすばらしい、先見の明がありすぎる。
体育館のうしろ半分をメインに使っていた女子の群れの中から、一連の犯人らしき隣のクラスの女子があわてて走ってきた。
「ご、ごめんなさ……っ!」
被害者が噂の金髪ヤンキーと知ると、反射で懺悔の言葉をつっかえさせた。二の句が告げず、あと1mほどの距離を残して立ちすくんでしまう。
仕方なくたまきのほうから近づいた。
もう土下座するしかない、そう思って女子は上半身を折り曲げた。
「ご、ご……ごめ、っなさい……!!」
「……」
「……っ」
「……別に」
上靴を収めた女子の視界に、ぽてん、とボールが転がった。
素早く頭を上げる。すでにたまきは踵を返していた。
ごめんなさい。自然と紡がれた直線的な声が、筋肉の張った背中へ翔んでいった。
聞こえてもたまきは、両手をズボンのポケットに突っこみ、一歩先を延々と睨み続けた。目と目の間にしわが寄り、首の筋がぴくぴくしている。
遊びの延長でわいわい楽しそうにやっていた授業は、一瞬にして処刑前の陰気臭さに囚われた。体力を試しに測定してみても、力の半分も出せない。
練習終了の笛の音が、総員の救いだった。――たまきにとっても。
早急に片付けを終え、先生の計らいでチャイムが鳴る5分前に解散となった。
我先にと離れていく生徒たちを横目に、たまきはポケットの裏地をさすりながら、鼻から多量の空気を吐き出した。胸の内側もなんだかざらついていた。
自分のベストな移動タイミングを探っていると、いきなり右の二の腕をつかまれた。
「き、九? な、なんだよ」
九はじっとたまきを見つめていた。
九の小さな手ではたまきの上腕二頭筋を包囲できていないにもかかわらず、腕を抜き取ることはできない。
握力測定かよやめろよ、とたまきらしからぬジョークをかましてみるも、九はくすりともせずに言った。
「行くぞ」
「教室ならさっさと」
「保健室」
「行っ……え?」
なんでと理由を問うのと同時に、九が歩き出す。腕を捕らえられたたまきは、つんのめりながらもついていくしかなかった。
5時間目を区切る合図がやっと校舎をめぐる。
ざわつき始めた廊下を、九は黙々と進んでいった。一見ふつうに歩いているようで、その実、たまきと股下の長さに差があるのに一歩が大きい。保健室の表札を見つけると、さらに速度が高まった。
失礼しますの挨拶までも高速で告げ、中に入る。保健医は不在だった。それでも九は止まらない。
「はい、たまきはここに着席」
丸椅子にたまきを座らせ、不躾に棚を漁り始める。
「お、おい……なんで、急に」
おそるおそるたまきが問いかけると、九はくるりと体を向けた。手には冷えピタと包帯があった。
ん? 冷えピタ? と二度見するたまきの前に、九は椅子を持ってきて腰を据えた。
「はい、手ぇ出してください」
お医者さんごっこのような口ぶりとは裏腹に、たまきの右手をポケットから引っこ抜く仕草は、カツアゲする不良のそれだ。
あらわになった手に、九はわざとらしく肩をすくめる。
「元ヤンの俺の目を侮るなよ」
メガネの奥の双眸が、黒い光をぐっと眇めた。
金目の物を見つけて元ヤンの性が光ったのではない。手の人差し指が、青く変色していたからだ。
「き、気づいてたのか……」
「当たり前」
どうせさっきのボールで突き指し、隣のクラスの女子に負い目を感じさせないために隠していたのだろうが、九の目はごまかせない。
相手の弱点をいち早く見破るのは、喧嘩の基本である。
ケガはするのも見るのも慣れている。そのわりに手当ての経験は比例せず、たいてい自然治癒力を過信していた。
しかし、勉強に目覚めた今、利き手がなければ何も始まらない。ケガを負えば、宿題もまともにできず不便極まりない。早めに治すに限る。
スピード重視には、自然治癒力に加え、応急処置が必要だ。たまきには勉強を教えてもらう恩義もあり、九は放っておけなかった。
だからといって突然医療知識が降って湧くわけもない――文明の利器・スマホは教室に置いてきた――ので、とりあえず冷やして固定すればなんとかなるだろうと、棚に数ある医療道具の中でよく知る冷えピタと包帯を選抜したのだった。
九の迷いのなさに、たまきは異物混入を指摘できずにいたし、そのせいで手当てのありがたみが薄れつつあった。
「たまきって、つくづくやさしいよな」
バカだよな、とおちょくるテンション感に、たまきはとうとう欠片ほど残った感謝を取り逃した。
「他人にはバカみてえにやさしい」
やっぱり褒めているのかわかりづらい絶妙な言い回し。
たまきの突き指した手に、真剣な顔で冷えピタを巻きつけている九のほうが、よほどその表現がお似合いだ。
「なのになんで自分にはやさしくしてやんねえんだか」
自己犠牲精神というやつか。
九は脳内の辞書から引っ張り出したそのワードをしばし咀嚼し、響きのかっこよさにちょっと惹かれた。してすぐに、いやいやちっともかっこよくねえ、と自己暗示する。
自他ともにどうでもいいタイプの九には、なかなか感情移入もできない心理だった。
(他人にやさしくできんなら自分のことを一番にやさしくするもんじゃねえの? 知らんけど。……あ、でも、「他人」を「ミケ」に置き換えたら、ちょっとは理解できっかも)
ミケにミケと名付けてからは、ミケ第一の生活になった。ミケが元気でいられるなら、自分の分の飯は要らないし、睡眠時間を削って勉強できる。
思い返せば、痛みをこらえるたまきの表情は、出会ったころのミケにそっくりだ。
ミケも自分の傷は二の次に、会ったばかりの
バカな子ほどかわいいとはよく言ったものだ。
「お、おまえだって……」
「え?」
「
たまきはいきなり語気を荒らげた。
冷えピタの上から包帯を重ねる九の腕をつかみ、うざったい袖を肘あたりまで下げる。手首についたミミズ腫れのような線状の傷を、ずばりと指差した。
「俺のことは気遣ってくれてるけど、自分のは放っておいてんじゃねえか」
「こんなん別に」
「別にじゃねえだろ!」
そう責められても。
九はあっけらかんと手首のかすり傷を見やった。
「たぶん治ってもまたやっちまうんだよなあ」
「そ、そんな思い詰めて……」
「うちのミケが」
「……え、ミケ?」
九の表情にとろみが増し、たまきの気勢に急ブレーキがかけられた。
室内に蔓延した消毒液の匂いが、鼻に抜け、毒気を消していく。
「昨日もまたミケに引っかかれちまったんだよ」
「えっと……?」
「ミケなりの愛情表現みたいなもんかな。かわいいだろ?」
「ええ……」
九は傷を傷だと認識していなかった。それは単に無痛というわけでもアクセサリー感覚でもない。しいて言うならMっ気に近しい。
予期せぬハートフルな展開に、たまきは目頭を押さえた。
「それリストカットじゃ……」
「何のこと?」
「はあ……」
「ん?」
(そんな場所に傷つくるなよ、危ねえな!)
九の手首を引っ掻いた傷の山を、たまきは恨みがましく睨めつけた。
てっきりそれが原因で非行に走ったと思い込んでしまったじゃないか。昨日あれこれ悩んだ時間を返してほしい。
「じゃあなんで不良になんかなったんだ……」
「えー、うーん……痛気持ちいい、的な?」
「なんだそれ」
不良をそんな健康グッズみたいにたとえる人が他にいるだろうか、いやいない。
「あ、今はちげえよ? ミケのこと守らねえとだし」
九はぐるぐる巻きにした包帯をハサミですぱーん! と切った。先端の断面にはほつれひとつなく、きれいに真っ直ぐ分かたれている。
「……おまえ、その猫のことばっかだな」
「うん? ん、まあ。ミケは、特別」
「……へえ」
「で、次にたまきかな」
今朝の「キーマン」に引き続き、またしても思わせぶりな発言。
たまきの胸につんと冷えた兆しが吹雪く。応急処置で2倍の太さになった人差し指から来る、すっとした冷感さとは明らかにちがった。
だって痛みが引いてくれない。
「……俺は二番かよ」
「いやいや、テストの結果じゃあるまいし。順位なんかつけられねえよ」
「……」
「俺たちって、なんつうの? 友だち? みたいな感じ? じゃん?」
義務教育期間グレていた九は、まともな友だちができたことがなく、他人に「友だち」と使うのもはじめてのことだった。
それゆえに下手に知ったかぶりしたような問答になったが、どうやら使い方が間違っていたらしい、たまきは徐々にうつむいていった。
(……とも、だち……)
たまきはくるぶしの覗く自分の足を内股気味に交差させた。
手厚く二段構造で守られた人差し指が、バクンバクンと脈を膨らませ、かえって熱を蓄える。
痛むのはいったいどこだろう。
(友だち……?)
かつてそうだった亮たちにはいじめられ、誤解を解きたかった同級生からは忌避され、近所の不良たちとはしばき合い、それでも渇望し続けた関係。
もう二度と贈られることはないとあきらめていた言葉たち。
――なのに、なぜ。
「……やだ」
「ええっ、ひでえー」
九の笑い声が白い室内を晴らす。
金髪に覆われた彫刻のような顔のみ、硬く影っていた。
まるで言った本人が一番驚いているかのような沈黙。
ふしぎに思った九は、下向きのたまきの眼前に手を振ってみる。応答なし。たまきはいっそう首を丸めこむ。
下方に落ちていく繊細な金髪が、九にはキュゥと垂れた猫の耳に見えてならなかった。
九は腰を上げ、地毛の垣間見える頭を撫でた。ぶるりと一瞬痙攣を起こしたつむじに、薄く伸びた口を寄せていく。
「……っ、は……?」
ハラハラと流れる髪の上に、かすかに触れたやわい温もり。
数秒間確かめたのち、たまきは衝動的に立ち上がった。椅子が清潔な床にドンッと倒れこむ。
「は、はあ!? きっ、おまっ、な、何を……!!」
噴火したように顔が真っ赤だった。火の回りは早く、襟足の揺らめく首根やシルバーをはめこむ鎖骨の下にまでおよんでいる。
友だちみたいな感じと言ったその口で、今、何をしたのか。
ためらいながらつむじを右手で押さえ、感触をたどろうとする。が、人差し指の包帯がこつこつ当たり、気が散る。惜しいとは思っていない、別に。
「あ、ごめ。ミケに似ててつい」
「はあん!?」
九は眉を八の字にしてへらっと破顔した。
友人どころか猫扱いに、たまきはまた別の火を燃やした。喜怒哀楽でおなじみの、怒りである。
舌打ちを九に飛ばし、大股で出入口に向かった。
「え、ちょ、どこ行くんだよたまき」
「……教室っ」
たまきはふんっと力いっぱいに扉をスライドした。
その背後では、九が大慌てで使った道具を棚に押しこんでいる。
「なら俺も行くって。もうすぐ授業始まるし」
「来んなダサメガネ!」
「もーなんだよさっきから。またカルシウム不足か? 牛乳今日ねえよー?」
「いらねえよ!」
無情にチャイムが鳴り渡る。
6時間目の遅刻が決まった、その瞬間。たまきは追いかけてくる九の足音に、ひそかに安心感を覚えていた。
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