第2話 ちいさな違和感
朝はいつもと同じ音で始まった。
けたたましい目覚ましのベル。少し遅れて、鳴るスマートフォンの通知音。
それなのに――どこかが、違っていた。
目覚めた瞬間、妙な胸騒ぎがした。悪い夢を見たような気がしたのだが、内容が思い出せない。頭の奥に黒い靄がかかっていて、それが喉の奥にまで降りてくるような、そんな感覚だった。
私はキッチンに立ち、コーヒーを淹れながら、サイコロのことを思い出した。
昨夜、「7」が出た。
あの目が、こっちを見ていた。
ぞくりと背筋を寒気が走る。私は笑ってその思い出を打ち消した。夢だ。酒のせいだ。
しかし――。
そのサイコロは、テーブルの中央に置かれていた。
転がしたはずなのに、ピタリと中央に。
私は眉をひそめた。いや、そんな位置に置いた覚えはない。たしか、転がしたままにしていたはず――。しかも、「7」は存在しないはずの目だ。それが、サイコロの上の面に出ていた。
私はゆっくりとサイコロを持ち上げ、すべての面を確かめた。
「1」「2」「3」「4」「5」「6」……それだけ。
なのに、“7”があるような気がしてならなかった。
その時、キッチンの奥でパキッという音がした。
誰もいない部屋の壁が、軋んだのだ。
思わず振り返ったが、そこには何もなかった。冷蔵庫のモーター音、外を走る車の音、鳥の鳴き声……すべてが“通常通り”で、ただその中心に、微かに染みついた「異物感」があった。
どうしても気になってしまったが、そこは悲しいかな社会人だ。
時計に急かされるように、異物感を押し殺して出社の準備を進めた。
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「おはようございます」
私はいつものように出社した。
挨拶を返す同僚の声が、少しだけ遠く感じた。コーヒーの香り、プリンターの唸り、タイピングの音。すべてが妙にクリアに耳に入ってくる。まるで、自分がそこにいないかのような感覚。
そんな私の様子に気づいたのか、隣のデスクの同僚・加藤が声をかけてきた。
「なあ、お前さ、最近元気ないよな。大丈夫か?」
「え、ああ……ちょっと寝不足でさ」
「いや、それだけじゃねぇだろ。昨日の会議、出てなかったし」
「……え?」
私の記憶では、会議なんて予定になかった。
「会議……あったの?」
「え、何言ってんの? 昼から一時間、佐野部長のプレゼン会議があっただろ」
「…………」
私は答えられなかった。まったく記憶にないのだ。
「ストレスたまってるのか?明日休みだし、今夜飲みにでも行くか?」
「……ごめん。今日はちょっと」
「……まあ、あれだ。疲れてるならちゃんと休めよ」
加藤はそれ以上何も言わず、自分の作業に戻った。
私はモニターに映る自分のスケジュール表を見つめながら、眉間に皺を寄せる。
会議なんて、なかった。はずだ。
だが、その空白の時間の中に、なぜか紅い目の残像が揺らいでいた。
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その夜も私は、あのサイコロを手に取った。
サイコロを持ったまま、私はただ、周りの音を聞いていた。
冷蔵庫、時計、風、外を走る車の音。
それが徐々に――ひとつに重なっていくような気がした。
遠くの風の音が、壁の中で鳴る足音に聞こえる。時計の秒針が、誰かの舌打ちのように響く。私の部屋は、私が思っていたよりも広く、深く、どこかに繋がっているような気がしてきた。
ふと、なんとなくサイコロを転がした。理由はない。ただ、それが必要な気がした。
コロン――。
「6」が出た。
しかし、その「6」の中央には……やはり紅い目が、じぃっとこちらを見つめていた。
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