君が嫌いだった煙で

 煙草を始めた。


 特別な理由はない。始めたかったわけでも、吸いたかったわけでもない。ただ、吸ってしまった。


 最近、私は、自分が何を始め、何を終えたのかを確認する気力すら失っている。

 昔、彼女は言っていた。

 「煙草は嫌い」

 そんな彼女は、今は別の男に対して、こんな台詞を吐いている……筈。


 「煙草は嫌い」

 私はその言葉を反芻しながら、ただ煙を吐く。かつて好きだった男が、自分の嫌いなものに手を染めてしまったという加害性に、うっとりとしながら。



 成人式で再会した彼女は、私が思っていたよりも元気そうで、私が思っていたよりも、変化がなかった。


 「最近どう?」

 彼女は私に聞く。

 「楽しいよ」

 私は短く答える。

 これは虚勢だろうか?

 ここで別の言葉を、たとえば、「寂しい」とか、「苦しい」とか選べていたら、私の生活は変わっていたのか?


 ともかく、その二言の会話が、私たちを終わらせた。

 そもそも、私たちの関係が、この再会で始まる余地なんてなかったのかも知れない。

 それは私の未練が生み出した、淡い期待だったのかも知れない。

 でもそれでは、どうして彼女の方から、私に話しかけて来たのだろう? 

 あの時、終わらせることを望んでいたのは彼女の方で、私はそれを受け入れただけだった筈なのに。


 とにかく、私は彼女との再会を契機に煙草を始めた。いや、違うかも。……まあ、それはどちらでもいいか。

 ただ、私は事実として私は煙草を吸い始めた。それだけ。



 今はその、一服の間だけ、何かに区切りをつけた気になれる。

 だが、その五分間は、私を救ってなどいない。ただの延命措置だ。

 いや、区切りなんて、そんなことは全部嘘だ。煙草で私は彼女を思い出す。彼女の真っ黒な後毛を・彼女のラメで輝いた綺麗な爪先を・彼女の困ったように笑う無垢な表情を。

 

 でも、思い出は同時に私の日常の中に穴を空ける。私はそこに、煙を詰めている。ひとえに、他に詰めるものがないから。

 私は穴の底で、自分の吐いた煙を見上げながら、いつもより少しだけ孤独を薄めている。

 それだけだ。


 依存はしていない?

 馬鹿か。

 もうとっくにしている。


 煙草が切れると胸がざわつくのではなく、胸の穴が広がって、中から何か得体の知れないものが溢れ出そうになるだけだ。

 私は、その穴を塞ぐために煙を吸っている。塞ぐために、また吸う。

 吸う。塞ぐ。広がる。吸う……。救いのない、この繰り返し。

 煙草が私の区切りであるはずもない。ただのルーチン。習慣。醜悪な惰性。不健康な自己肯定。

 でも私は、きっと明日も吸う。

 彼女が愛したはずの誠実な男は、その実そういう人間なのだから。


 暗くなった部屋で、男の肩の上で彼女は溢す。右手で彼の、胸の辺りを撫でながら。

 「私の元カレには、ぽっかり穴が空いてたのよ……このあたりにね」

 きっと、今の恋人は少し考えて、焼けた肌で際立った、真っ白い歯を見せてこう答えるはずだ。

 「それは、なんというか、病的な人と付き合ってたんだね」

 「ええそうよ、だから、私は嫌だった。その穴を埋めるのが、私な気がして」

 そう言って、彼女は煙草を吹かす。


 それって、すごく残酷な話だって、そうは思いませんか? だって、彼の歯は真っ白なのに、私の歯は、タールで真っ黄色なんです。

 どうしようもなく、真っ黄色なんですよ。


<次回更新:気が向いたら>

更新後記:

 誰かの話です。たぶん。

 誤解しないでください。作者が煙草を吸っているとか、恋に未練があるとか、そんな話ではありません。

 これはフィクションです。きっと……ね。

 でもまあ、もし心当たりがあるとしたら──それは、あなたの自身の話なんだと思います。

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