【天使】天上の福音
窓の外で、世界はいつも通りの音を立てていた。遠くで響く街の喧騒、風が木の葉を揺らす音、名も知らない鳥たちのさえずり。その一つ一つは些細なものなのに、全てが混ざり合って、私の心の中に静かなさざ波を立てているような、そんな感覚があった。
それは悲しみや苦しみではない。ただ、生きているだけで降り積もる、言葉にならない微かな疲労。私はソファの窓際に座り、ぼんやりと空を眺めていた。空はどこまでも青く、白い雲がゆっくりと流れていく。綺麗だとは思うのに、その美しさが心の奥まで届いてこない。
ふと、背後に柔らかな気配を感じた。振り返るまでもなく、それが誰なのかは分かっていた。私の恋人、セラフィエル。彼はいつも、音もなく私のそばに現れる。その存在感は、まるで陽の光やそよ風のように自然で、私の日常に溶け込んでいた。
「少し、お疲れですね」
彼の声は、澄んだ泉の水を掬い上げた時のような、清らかで優しい響きを持っていた。心配するでもなく、ただ事実をありのままに告げる、穏やかな声。
「世界の音が、あなたの心にさざ波を立てているようです」
私は何も言わずに、こくりと頷いた。彼は私の心を、いつだって正確に読み取ってしまう。
セラフィエルは私の隣ではなく、私の背後にそっと腰を下ろした。そして、何も言わずに、彼の腕が私の肩を優しく包む。それだけではなかった。私の視界の端で、純白の何かが、ふわりと広がっていくのが見えた。
彼の翼だ。
背中の肩甲骨のあたりから生えた、巨大で、どこまでも白い翼。一枚一枚の羽根が、まるで月の光を紡いで作られたかのように繊細で、神々しい光沢を放っている。その翼が、私を覆うように、ゆっくりと、優雅に閉じていく。
あっという間に、私は純白の翼が作り出す、柔らかなドームの中にすっぽりと収まっていた。
翼の内側は、不思議なほど静かだった。さっきまで聞こえていた世界のあらゆる音が、まるで分厚い絹のカーテンを何枚も隔てたかのように、遠く、微かな響きへと変わっていく。聞こえるのは、すぐそばにある彼の穏やかな呼吸の音と、私自身の心臓の音だけ。
ふわりと、清潔な香りがした。それは陽の光をたっぷりと浴びたシーツの匂いにも似ていて、それでいて、雨上がりの朝の空気のような、澄み切ったオゾンの香りも混じっている。彼の香りだ。この香りに包まれていると、心のさざ波がすうっと凪いでいくのが分かる。
私はそっと、翼の内壁に触れてみた。指先に触れるのは、信じられないほど柔らかく、温かい羽毛の感触。ダウンフェザーと呼ばれる、彼の翼の根元に近い部分の羽根だ。その一本一本が、私の指の動きに合わせて、くすぐるように優しく撓む。
私は翼のドームの中で、ゆっくりと息を吸い、そして吐いた。彼の存在が作り出した、私だけのための聖域。ここは、どんな悲しみも、どんな不安も、そして、どんな些細な世界の騒音さえも届かない、完璧な静寂と安らぎの場所。
彼は、私を危険から守ってくれるわけではない。この世界に、私を脅かすような危険など、今のところ存在しないのだから。彼がくれるのは、もっと根源的で、もっと優しいもの。生きているだけで感じる、この微かな疲労から私を解き放ち、魂そのものを休ませてくれる、絶対的な安らぎ。
私は彼の腕と翼に完全に身を委ね、ゆっくりと目を閉じた。彼の体温が背中からじんわりと伝わってきて、凍えていたわけでもないのに、心の芯から温まっていくような気がした。
彼の愛は、私を物理的に守るための鎧ではない。私の魂を、優しく包み込むための、天上の繭なのだ。
この城にある書斎は、私のお気に入りの場所の一つだった。壁一面に作り付けられた本棚には、古今東西のあらゆる物語が、まるで賢者の知識のように静かに眠っている。革の装丁の匂いと、古い紙の匂いが混じり合った、落ち着いた空気が好きだった。
私は、陽の光が差し込む大きな出窓のそばにある読書椅子に腰掛け、一冊の古い詩集を読んでいた。美しい言葉で綴られた愛の詩は、私の心を豊かにしてくれる。
夢中になってページをめくっていた、その時だった。
「あっ……」
ぱらり、と乾いた音を立ててページをめくった拍子に、指先に、ちくり、と小さな痛みが走った。見てみると、人差し指の先に、本当に小さく、赤い線が一本できている。硬質な紙の端で切ってしまったらしい。血が滲むほどでもない、すぐに忘れてしまうような、些細な切り傷。
私は特に気にも留めず、指先を口に含もうとした。けれど、それよりも早く、私の手は優しく、しかし有無を言わせぬ力で、そっと取られた。
顔を上げると、いつの間にかセラフィエルが私の目の前に跪いていた。彼は、私が読んでいた詩集を静かに取り上げてサイドテーブルに置くと、私の手を取り、その両手で大切そうに包み込んだ。
彼の瞳は、夜明けの空の色をしていた。淡い紫と、柔らかな水色が混じり合った、この世のものとは思えないほど美しい色。その瞳が、今は私の指先の小さな傷を、まるで世界で最も痛ましいものを見るかのように、悲しげに見つめている。
「セラフィエル、大丈夫。ほんのちょっと、切っただけだから」
私が慌ててそう言うと、彼はゆっくりと顔を上げた。そして、私の目をまっすぐに見つめて、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「いいえ。……あなたの聖域に、僅かでも瑕(きず)がつくべきではありません」
聖域。彼は、私の身体のことをそう呼んだ。まるで、神が宿る神殿か何かのように。
その言葉に、私の心臓がきゅうっと甘く締め付けられる。大げさだ、と思う気持ちと、それ以上に、こんなにも大切にされているという実感が、胸いっぱいに広がっていく。
彼は私の手を取ったまま、ゆっくりと自分の顔に近づけていく。そして、私の人差し指の、その小さな傷口に、彼の唇がそっと触れた。
ひんやりとしているかと思いきや、彼の唇は驚くほど温かかった。それは、ただ触れるだけの、羽のように軽いキス。けれど、その唇が触れた瞬間、私の指先から、温かい光が流れ込んでくるような、不思議な感覚があった。
彼の唇から、ふわりと金色の光が溢れ出す。それはまるで、陽光の粒子そのものみたいにきらきらと輝き、私の指先を優しく包み込んだ。痛みなんて最初からなかったけれど、その光に触れられた場所から、じんわりと心地よい温もりが広がっていく。
ゆっくりと、彼の唇が離れていく。
私は恐る恐る、自分の指先を見た。そこには、もう何もなかった。さっきまで確かにあったはずの赤い線は、跡形もなく消え去っていた。まるで、最初から何もなかったかのように、滑らかな肌があるだけ。
これが、彼の持つ聖なる力。触れただけで、あらゆる傷や病を癒してしまうという、天使の奇跡。
でも、私が本当に心を打たれたのは、その奇跡の力そのものではなかった。
彼が、その偉大な力を、こんなにも些細な、取るに足らない私の傷のために、何の躊躇もなく使ってくれたこと。そして、その行為が、まるで祈りを捧げるかのように、どこまでも敬虔で、真摯だったこと。
彼は、私の存在そのものを、傷一つ、穢れ一つあってはならない、神聖なものとして扱ってくれる。
その事実が、どんな愛の言葉よりも、どんな高価な贈り物よりも、私の心を深く、深く満たしていく。
私は、言葉にできずに、ただ彼の夜明け色の瞳を見つめ返した。その瞳の中には、私への底知れないほどの愛情と、慈しみが、静かな湖のように満ち満ちていた。
午後の光が、部屋に穏やかな影を落とす頃。私たちは、リビングの暖炉の前にある大きなソファで、静かな時間を過ごしていた。暖炉に火は入っていない。ただ、窓から差し込む陽光が、部屋全体を温かい色に染めていた。
セラフィエルは、私の隣で静かに本を読んでいた。けれど、時折、その背中にある純白の翼を、わずかに身じろぎさせるように動かしている。その仕草に、私はふと、あることに気がついた。
彼の右の翼の、風切り羽と呼ばれる一番長い羽根の一枚が、ほんの少しだけ、その列から乱れて、逆立っている。ほんの数ミリ、他の羽根から浮き上がっているだけ。他の誰が見ても、きっと気づかないだろう。でも、いつも彼の姿を目で追っている私には、その僅かな乱れが、なぜかとても気になった。
彼はその羽根を自分で直そうとするかのように、何度か翼を動かしてみるけれど、上手くいかないようだった。その様子が、なんだか少しだけ困っている子供のようで、微笑ましく思えた。
「セラフィエル」
私が声をかけると、彼は本から顔を上げた。
「どうかしましたか?」
「あのね、翼の羽根が、少しだけ……」
私が指さすと、彼は自分の翼に視線を落とし、ああ、と小さく息を漏らした。そして、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「ええ、少し。どうにも、収まりが悪いようです」
私は、ほんの少しだけ迷ってから、思い切って言ってみた。
「……私に、直させてくれないかな?」
その言葉を聞いた瞬間、セラフィエルの夜明け色の瞳が、驚いたように大きく見開かれた。それは、私が今まで見たことのない表情だった。驚きと、戸惑いと、そして、その奥に隠された、微かな喜びのような光。
彼はしばらくの間、何も言わずに私を見つめていた。部屋には、窓の外で風がそよぐ音だけが聞こえていた。やがて、彼はゆっくりと、そしてどこか厳かな口調で言った。
「……私たちの同胞にとって、翼は魂そのものなのです」
彼の声は、いつもの穏やかさの中に、真剣な響きを帯びていた。
「そして、その羽を他者に委ねることは……自らの魂の鍵を、無条件に手渡すのと同じ意味を持ちます」
魂の、鍵。
その言葉の重みに、私は息を呑んだ。
「良いのですか? 私に……あなたの魂に、触れることを許してくださるのですか?」
彼は、私の問いに、静かに、しかしはっきりと頷いた。そして、今まで見たことがないくらい、柔らかく、そして少しだけ、 微笑みを浮かべた。
「ええ。……あなたに、私の魂に触れてほしいのです」
彼はゆっくりと私に背を向けるように座り直すと、その巨大な翼を、私の目の前に広げてくれた。間近で見る彼の翼は、圧倒的なまでに美しかった。一枚一枚の羽根が完璧な秩序を持って並び、光を受けて虹色のかすかな光沢を放っている。
私は、心臓がどきどきと高鳴るのを感じながら、そっと手を伸ばした。そして、例の、少しだけ乱れてしまった羽根に、指先で触れる。
羽根の軸は、象牙のように滑らかで、それでいて驚くほど強靭だった。そして、そこから広がる羽枝は、この世のどんな絹織物よりも柔らかく、指先に心地よい感触を伝えてくる。
私は、息を詰めて、その羽根をそっと持ち上げた。そして、他の羽根の流れに沿うように、優しく、優しく、元の位置へと滑り込ませる。
するり、と羽根が収まるべき場所に収まった、その瞬間。
セラフィエルの全身から、ぱあっと、柔らかな金色の光がオーラのように溢れ出した。彼の背中が、心地よさに満ちたように、ふっと力を抜くのが分かる。そして、彼の口から、まるで美しい旋律のような、長くて甘いため息が漏れた。
それは、絶対的な安らぎと、完全な信頼から生まれる音だった。
私は、彼の魂に触れたのだ。そして、彼は、それを許してくれた。
この瞬間、私たちの関係が、また一つ、新しい段階へと進んだような気がした。
今までは、ただ一方的に彼から与えられ、守られ、愛されるだけの存在だった。けれど、今は違う。私もまた、彼に何かを与えることができる。彼が、その最も神聖で、最も無防備な部分を、私にだけは委ねてくれる。
私たちは、対等なのだ。この、天上の愛の聖域の中で。
私は、彼の滑らかな翼の感触を指先に残しながら、込み上げてくる幸福感に、そっと目を閉じた。
その日、私たちは陽の光が燦々と降り注ぐ庭園の、白いガゼボの下でお茶を飲んでいた。テーブルの上には、彼が淹れてくれたハーブティーの優しい香りが立ち上っている。穏やかで、完璧で、どこまでも幸せな時間。
ふと、私は空を見上げながら、何の気なしに呟いた。それは不安から生まれた言葉ではなく、ただ純粋な、子供のような疑問だった。
「セラフィエルは、永遠を生きるのに。私といる時間は、ほんの瞬きみたいなものなのでしょうね」
星々が生まれ、そして消えていくほどの、果てしない時間。その悠久の流れの中に生きる彼にとって、人間の短い一生など、きっとあっという間の出来事に違いない。そう思うと、少しだけ、胸の奥がちくりと痛んだ。
私の言葉に、セラフィエルは手にしていたティーカップを静かにソーサーに戻した。そして、私の手を、両手で優しく包み込む。彼の夜明け色の瞳が、どこまでも澄んだ光をたたえて、私をまっすぐに捉えた。その表情は、今までにないほど真摯で、 輝きに満ちていた。
「いいえ、違います」
彼は、静かに首を振った。
「あなたに出会うまで、私の永遠は、完璧な無音でした」
無音、と彼は言った。
「美しく、静かで、けれど決して変わることのない、ただ一つの音。始まりも終わりもなく、ただ静寂だけが続く、永遠という名の静寂です。それはそれで、満ち足りてはいました。けれど……」
彼の指先に、そっと力がこもる。
「しかし、あなたは……あなたの笑い声、あなたの溜息、あなたの心臓の鼓動、そのすべてが、私の永遠に初めて生まれた『旋律』なのです」
旋律。私の存在が、彼の永遠の音楽。
「あなたの人生は、決して瞬きなどではありません。それは、私の静寂の世界で奏でられる、ただ一つの、そして何よりも美しい楽曲。喜びがあり、時には戸惑いがあり、そして穏やかな幸福がある。その一つ一つの音色が、私の世界に、初めて『時間』という名の彩りを与えてくれたのです」
彼は、私が儚いから悲しいのではない、と言った。私が儚いからこそ、その一瞬一瞬が、彼の永遠の中で、二度と繰り返されることのない奇跡として、宝石のように輝くのだと。
私の命は、彼の永遠を飾る、最も美しい音楽。私の存在そのものが、彼の世界の意味。
込み上げてくる熱い感情に、視界が滲む。今まで、彼が私を愛してくれる理由が、分からなかった。こんなにも平凡で、何の取り柄もない私を、どうしてこれほどまでに完璧な存在が愛してくれるのか、ずっと不思議だった。
でも、今、分かった気がする。
彼は、私の条件を愛しているのではない。私の存在そのものを、その移ろいゆく命の輝きそのものを、愛してくれているのだ。
彼は私の涙を、そっと指で拭うと、慈しむように微笑んだ。そして、新しい、私だけの呼び名で、そっと囁いた。
「あなたは、私の『福音』」
「私の世界に、喜びという名の意味を知らせてくれた、唯一の便りなのです」
福音。良い知らせ。
その言葉が、私の心の最も深い場所に、温かい光を灯す。
彼はゆっくりと顔を近づけ、その唇が、私の唇にそっと重ねられた。それは、永遠の約束を封じるような、どこまでも優しく、そして神聖なキスだった。
もう、何も迷わない。何も不安に思うことはない。
私は、ただの儚い人間ではない。
私は、彼の永遠を彩る、世界でたった一つの、美しい音楽なのだから。
その至上の幸福感に包まれて、私は彼の腕の中で、そっと微笑み返した。
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