【ワーウルフ】私の恋人は、世界で一番甘くてふわふわです

アラームの音ではなく、じんわりとした温かさと、柔らかい何かに包まれる感覚で、私の意識はゆっくりと浮上する。目を開けるより先に、すぐそばにある体温と、穏やかな寝息が、ここが世界で一番安全な場所だと教えてくれる。


「ん……」


小さく身じろぎすると、私を腕の中に閉じ込めている逞しい腕が、さらに優しく抱き寄せてきた。私の恋人、フェン。彼の腕の中が、私の定位置だ。


そろりと目を開けると、すぐ目の前に彼の寝顔があった。チャコールグレーの髪は少しだけ寝癖がついていて、そこからぴょこんと飛び出している銀色の毛並みの獣の耳が、時々ぴくりと動いている。眠っている時でさえ、彼の耳は正直だ。


彼の姿は、完全に人間というわけでも、完全に獣というわけでもない。骨格は背の高い人間の男性のものだけど、そのあちこちに、彼の種族であるワーウルフの特徴が愛おしく残っている 。  


例えば、その耳。銀色の毛足が長くて、見るからにふわふわだ。例えば、彼の顎のラインに沿って、うっすらと生えている柔らかな産毛。彼の白い肌に溶け込むように生えていて、頬ずりすると少しだけくすぐったい。例えば、彼の指。人間の男性らしく大きくて骨張っているけれど、爪は少しだけ分厚くて黒い。まるで手入れの行き届いた黒曜石のようで、私が「綺麗だね」と言うと、いつも照れたようにその大きな手で私の頭を撫でてくれる。


そして、一番のお気に入りは、彼の尻尾。私の腰の上に、まるで生きているブランケットみたいに乗せられている、大きくてふさふさの尻尾だ。銀灰色で見事な毛並みのそれは、彼が眠っている間も、時々ゆったりと揺れる。私が少しでも寒い素振りを見せると、この尻尾がもっとぴったりと私に巻き付いてくることを、私は知っている。


彼の寝顔をじっと見つめていると、長いまつ毛がふるりと震え、蜂蜜を溶かしたような温かい琥珀色の瞳がゆっくりと開かれた。眠りから覚めたばかりで少しだけ潤んだ瞳が、私を捉えた瞬間、ふにゃりと柔らかく細められる。


「……おはよう、俺の番。よく眠れたか?」


彼の声は、低くて少しだけ掠れた、心地いい響き。寝起きの声は特に甘くて、私の心臓を優しく鷲掴みにする。


「うん、おはようフェン。ぐっすり眠れたよ」


私がそう答えると、彼は満足そうに目を細め、大きな身体を寄せてきて、私の首筋に顔をうずめた。すん、と深く息を吸い込む音が聞こえる。彼のふわふわの耳が私の頬に触れて、くすぐったい。


「……ん。お前の匂いがすると、安心する」


彼の少しざらついた、産毛の生えた頬が私の肌にすり寄せられる。それは彼にとって、最高の愛情表現であり、彼が心からリラックスしている証拠だった。ワーウルフである彼にとって、匂いはとても大切なものらしい。特に「番」である私の匂いは、彼にとって何よりの精神安定剤なのだと、いつか教えてくれた。


彼が私を「番」と呼ぶこと。それは、この世界でたった一人の、運命の相手を意味する言葉だ。彼と出会った時から、彼は私のことを無条件に、当たり前のように愛してくれた。私が何かをしたからじゃない。私が私であるという、ただそれだけの理由で、彼は私を世界の中心だと言ってくれる。


「フェンも、よく眠れた?」

「ああ。お前が腕の中にいるからな。世界で一番幸せな夢が見られる」


彼は顔を上げると、私の額に優しいキスを落とした。その時、彼の唇の端から、人間よりも少しだけ長くて鋭い犬歯がちらりと見えた。その牙は、彼がワーウルフであることの紛れもない証だけど、私にとっては彼の可愛いチャームポイントの一つでしかない。だって、その牙が見えるのは、彼が幸せそうに笑う時だけなのだから。


朝の光が部屋に差し込み、彼の銀色の耳や尻尾の毛をキラキラと輝かせている。この腕の中で目覚める朝が、私の日常。これ以上の幸せなんて、きっと世界のどこにもない。


***


「今日の夜ごはんは、野菜たっぷりのシチューにしようかな」

「いいな。お前の作るシチューは最高だ」


昼下がり、私とフェンは夕食の材料を買いに、街の市場へ向かって歩いていた。隣を歩く彼の歩幅は私よりずっと大きいけれど、いつも私に合わせて、ゆっくりと歩いてくれる。


市場はいつも活気に満ちていて、たくさんの人々でごった返している。でも、不思議と私は人混みに煩わしさを感じたことがない。それはきっと、フェンがいつも私を守ってくれているからだ。


彼は何も言わずに、いつも私の隣の、通り側に立ってくれる。彼の背は高くて、がっしりとした体格をしているから、ただそこにいるだけで自然と周りの人が私たちを避けて通っていく 。誰かがぶつかってきたり、押されたりすることなんて一度もない。彼が作り出す、見えないけれど絶対的な安全地帯に、私はいつも守られている。  


「お嬢さん、いい果物があるよ!見てかないかい!」


威勢のいい果物屋の店主が声をかけてきた。少し強引なその様子に私が戸惑っていると、隣のフェンが静かに店主の方へ視線を向けた。ただ、琥珀色の瞳でじっと見つめただけ。それなのに、店主は「あ、いや……失礼しました」と、なぜか急に丁寧な口調になって、すごすごと引き下がってしまった。


フェンは怒ってもいないし、威嚇したわけでもない。でも、彼が持つワーウルフとしての静かな威圧感は、「彼女を煩わせるな」という無言のメッセージを雄弁に物語るのだ。そのさりげない守護が、私にはたまらなく嬉しくて、心強い。


「あ、そうだ。食後に甘いものが食べたいな。どこかに美味しいお菓子屋さん、ないかな?」


私が何気なくそう呟くと、フェンはぴたりと足を止めた。そして、目を閉じ、すっと天を仰ぐように顔を上げる。彼の銀色の耳が、左右にぴこぴこと動いて、何かを探しているみたいだ。


「……こっちだ」


彼は深く息を吸い込むと、確信に満ちた声で言った。

「焼きたての、甘いバターと砂糖の匂いがする」


彼の言葉に導かれるまま、私たちは市場のメインストリートから一本外れた、細い路地裏へと入っていく。こんなところにお店なんてあったかな、と思っていると、本当に行き止まりの角に、小さな可愛らしいパン屋さんがあった。今まで一度も気づかなかった、隠れ家のようなお店だ。


お店の看板には「焼きたてクリームパイ」と書かれている。ガラスケースの中には、つやつやのパイが並んでいて、まさにフェンが言った通りの、甘くて香ばしい匂いが漂っていた。彼の優れた嗅覚は、私の些細な願い事を叶えるための、最高の魔法だ。


二人分のクリームパイを買って、近くの広場にあるベンチに座る。サクサクのパイ生地を一口食べると、中から温かいカスタードクリームがとろりと溢れ出した。


「……おいしい」


思わず、小さな幸せのため息が漏れた。それは本当に、自分にしか聞こえないくらいの、小さな小さな音だったはずなのに。

ベンチの向こう側で、街の様子を眺めていたフェンの耳が、ぴくりとこちらを向いた。そして、振り返った彼の顔には、どうしようもなく愛おしいものを見るような、優しい笑みが浮かんでいた。


彼の鋭い聴覚は、危険を察知するためだけにあるんじゃない。私が感じる、ほんの些細な幸せの音も、完璧に拾い上げてくれるのだ。彼のモンスターとしての一面は、私を怖がらせるものではなくて、私を幸せにするためだけにある。その事実が、私の心を温かいクリームみたいに、甘く満たしていくのだった。


***


家に帰ってきて、ソファで並んでくつろいでいる時が、私にとって至福の時間だ。フェンは大きな体をしているけれど、甘えるのはとっても上手。いや、彼が甘えているのか、私が甘やかしているのか、もうよくわからない。


「なぁ」


隣に座る彼が、私の肩にこてんと頭を乗せてきた。大きな狼がじゃれついてくるみたいで、その重みが心地いい。


「頭、撫でてくれないか? お前に撫でられるのが一番気持ちいいんだ」


そんなことを、真剣な琥珀色の瞳で言われたら、断れるわけがない。私は「もちろん」と微笑んで、彼のチャコールグレーの髪と、そこに生えている銀色の耳に、そっと指を伸ばした。


ふわふわで、少しだけひんやりとした耳の毛並みは、最高の触り心地だ。その付け根を優しく指で掻くように撫でてあげると、彼の喉の奥から、低くて心地のいい振動音が聞こえてきた。


「ごろごろごろ……」


猫が喉を鳴らす音に似ているけれど、もっと深くて、力強い響き。彼の胸全体が震えて、その振動が私の肩にも伝わってくる。それは彼が最高にリラックスして、幸せを感じている時の音。私だけが聞くことのできる、特別な愛情の証だ。


彼の耳を存分に堪能した後、今度はソファの上に投げ出されている、彼の大きな尻尾に手を伸ばす。私がそのふさふさの毛並みに触れた瞬間、今までゆったりと揺れていただけの尻尾が、ぶん、ぶん、と力強く左右に振れ始めた。


ソファのクッションに、ぼふっ、ぼふっと尻尾が当たる音がする。彼はいつもクールな表情を崩さないようにしているけれど、この尻尾だけは嘘がつけないらしい。私が尻尾の付け根の、彼が特に好きな場所を撫でてあげると、尻尾の動きはさらに速くなる。


「……尻尾、正直だね」

「……うるさい。勝手に動くんだ」


ぶっきらぼうにそう返すけれど、彼の耳は嬉しそうにぴこぴこ動いているし、口元も緩んでいる。こういう、強そうな見た目と、素直で可愛い反応のギャップが、たまらなく愛おしい 。  


しばらくすると、彼は私の膝の上に、ごろんと頭を乗せてきた。いわゆる、膝枕の状態だ。彼は大きな目を閉じて、ただ私の存在を全身で感じているかのように、静かに身を委ねている。


私は彼の髪を優しく梳きながら、心の中で、私だけの秘密のリストを思い浮かべた。


フェンの可愛いワーウルフな習性・秘密リスト


1. 幸せのゴロゴロ音


2. 正直すぎる尻尾


3. 匂いを嗅ぐ時の甘え顔


4. 集中する時の耳の動き


5. おねだりする時の子犬の目


こんな風に、彼のワーウルフならではの特徴は、全部が私にとっての「好き」の理由になっている。それはきっと、彼の力が、彼の本能が、その全てが私を愛するために使われているからだ。


膝の上の彼が、私の手を取り、自分の頬にそっと押し当てた。

「……お前は、世界で一番温かいな」

その言葉だけで、私の心はこれ以上ないくらいに満たされていく。この大きくて、強くて、甘えん坊な私の恋人を、これからもずっと、世界で一番甘やかしてあげよう。そう、心に誓った。


***


その夜、窓の外には、雲一つない夜空に、まん丸の月が白銀の光を放っていた。部屋の中まで明るく照らし出す、見事な満月だ。


ワーウルフにとって、満月は特別な意味を持つ。古くからの言い伝えでは、理性を失い、凶暴な獣へと姿を変えてしまう呪いの日とされている 。  


私はソファで隣に座る彼の顔を、少しだけ心配しながら見上げた。

「フェン、今夜は満月だけど、大丈夫?」


私の不安を察したのか、フェンは穏やかに微笑んで、私の肩を強く抱き寄せた。

「大丈夫。苦しくなったりはしない。昔と違って、今はもう完全に制御できるからな」

「そう、なんだ」

「ああ。ただ……」


彼が言葉を区切り、私の目をじっと見つめる。その琥珀色の瞳は、月の光を反射して、いつもより深く、きらきらと輝いているように見えた。


「ただ、月の魔力は、俺の本当の性質を増幅させるんだ」

「本当の、性質?」

「そう。そして、俺の本当の性質は……お前を愛することだ」


だから、と彼は続けた。

「満月の夜は、いつも以上にお前が好きで、どうしようもなくなる。いつも以上にお前に触れたくて、甘えたくなるだけだ」


彼の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。世間では恐れられている満月の呪いが、私たちの間では、ただの「愛情増幅イベント」でしかないなんて。なんて幸せなんだろう。


彼の体温はいつもより少しだけ高い気がするし、銀色の毛並みも、心なしかいつもよりふわふわと柔らかさを増しているように感じた。彼は私の手をとり、バルコニーへと誘う。


ひんやりとした夜の空気が気持ちいい。フェンは私の後ろからそっと抱きしめると、二人まとめて大きなブランケットでくるんでくれた。彼の胸に背中を預けると、とくん、とくん、という力強い心臓の音が伝わってくる。


二人で黙って、空に浮かぶ美しい月を眺めていた。すると、フェンが私の耳元で、優しく囁いた。

「なぁ、少しだけ、歌ってもいいか?」

「歌?」


私が聞き返すと、彼はこくりと頷いた。そして、月を見上げたまま、深く息を吸い込む。


「アォーーー……」


それは、遠吠えだった。でも、私が物語で読んだことのあるような、物悲しくて、恐ろしい獣の叫び声ではなかった。

低く、長く、どこまでも伸びていく、美しい旋律。それはまるで、夜空に捧げるオペラのアリアのようだった。悲しみや孤独の色合いは一切なく、ただ、満ち足りた幸福と、深い愛情だけが込められた、愛の歌。


彼は歌いながら、私を抱きしめる腕に力を込める。彼の歌声が、彼の振動が、私を優しく包み込む。この歌は、他の誰でもない、私だけのために歌われているのだと、はっきりとわかった。


やがて、長い遠吠えが終わると、辺りは再び静寂に包まれた。フェンは私の髪に顔をうずめ、囁く。


「昔は、遠吠えは仲間を呼ぶためのものだった。遠くにいる仲間と、心を通わせるためのものだったんだ」

「……うん」

「でも今は、違う。お前が、俺のたった一人の仲間が、すぐここにいる。だから、これはただ……お前がここにいてくれるっていう幸せを、あの月に伝えてるだけなんだ」


満月の夜は、怖い日なんかじゃない。フェンの愛が、いつもより少しだけ大きくなる、特別な記念日。彼の美しい愛の歌を聴きながら、私はこの世界で一番の幸せ者だと、心から思った。


***


満月の夜の特別な遠吠えの後、私たちはベッドに入った。彼の腕に抱かれて、その温かい胸に耳を当てていると、穏やかな心音が聞こえてくる。幸せすぎて、なんだかふわふわと夢見心地だった。


あまりにも満たされた気持ちでいると、ふと、素朴な疑問が湧いてきた。こんなにも完璧な彼が、どうして、何の取り柄もない私のことを、こんなにも愛してくれるんだろう。


「ねぇ、フェン」

「ん?」

「どうして、そんなに私のことが好きなの?」


それは、幸せだからこそ生まれる、少しだけ臆病な質問だったかもしれない。私の言葉に、フェンは少しだけ体を起こし、私の顔を真剣な眼差しで見つめた。月の光が彼の銀髪を照らして、まるで神話の登場人物みたいに見える。


彼は私の頬にそっと触れると、ゆっくりと口を開いた。


「理由なんてない」


その声は、どこまでも優しくて、穏やかだった。


「俺がお前を好きなのは、空が青いのと同じだ。太陽が東から昇るのと同じ。当たり前すぎて、理由なんてつけられない」


彼は言葉を探すように少しだけ黙り込み、そして、私の瞳をまっすぐに見つめて続けた。


「俺の魂が、お前を俺のたった一人の『番』だって知ってるからだ。初めて会った時から、ずっと。理屈じゃない。本能が、俺の全てが、お前じゃなきゃダメだと叫んでるんだ」


彼の大きな手が、私の髪を優しく撫でる。


「お前が何かを成し遂げたから好きなんじゃない。お前が美しいから好きなんじゃない。もちろん、お前は世界で一番美しいけどな」


彼は少しだけ悪戯っぽく笑って、私の鼻先に軽くキスをした。


「お前が息をして、ここで笑ってくれるだけで、俺の世界は完璧になる。俺の幸せは、お前が生きて、ここにいてくれること、ただそれだけなんだよ」


彼の言葉は、どんな愛の言葉よりも深く、私の心の奥底に染み渡っていった。

理由がない愛。条件がない愛。ただ、私が私であるというだけで注がれる、絶対的な肯定。私がずっと心のどこかで求めていた、でも手に入らないと諦めていたものが、今、確かにここにあった 。  


涙が、ぽろりと一筋、頬を伝った。それは悲しい涙じゃない。温かくて、幸せな涙だった。


「……ありがとう」

「礼を言うのは俺の方だ。俺を見つけてくれて、俺の番になってくれて、ありがとう」


彼は私を再び強く抱きしめ、その大きな体で完全に包み込んだ。彼のふさふさの尻尾が、私の足に優しく絡みつく。まるで、どこにも行かせないとでも言うように。


とくん、とくん、と彼の心臓が、私の背中で穏やかなリズムを刻んでいる。この温かさ、この匂い、この腕の中、この心音。その全てが、私の居場所。


もう、何も怖くない。何も不安じゃない。

ここは、私の場所。これが、私の幸せ。

永遠に続く、甘くて優しい、私の毎日。


私は彼の腕の中で、安心して目を閉じた。

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