向かい側のビル
翔太君はある年の夏の終わり頃、都内の4階建てマンションの最上階に引っ越しました。
その物件に決めた理由は、最上階の角部屋にだけ設置された、広々としたバルコニーがあったからです。
内見の際、すっかり心を奪われ、他の物件を検討する間もなく即決してしまいました。それほど気に入った一方で、「こんなに良い物件がどうして残っていたのだろう?」という疑問がふと浮かびました。けれども引っ越し作業が進むにつれその疑問は、記憶の片隅へと押しやられました。
入居したその日から、翔太君はバルコニーを過ごしやすい空間へと整えていきました。人工芝を敷き、アウトドアチェアとテーブル、そして最近購入したばかりの七輪を設置。そして酒を片手に肉や魚、野菜などを焼いてひとり晩酌を楽しんだり、晴れた日にはハンモックで読書をして、そのまま眠ってしまうこともあります。まさに、思い描いていた理想の暮らしでした。
引っ越してから気づいたのですが、マンションの周囲は居酒屋などがあり、少々騒がしいこともあります。しかし車一台分ほどの狭い道を挟んだ向かい側のビルは、とても静かでした。6階建ての貸しビルで全室どこかの企業が、オフィスビルとして使用していると翔太君は思いました。
全面ガラス張りの構造から、最初はひと目が気になったものの、主に休日や夜にバルコニーを利用しているお陰か、偶然にも今まで向かい側のビルに人が居ることを見かけたことはありません。
特に住居トラブルに巻き込まれることもなく、平穏で快適な暮らしを送っていたそんなある日のことです。
その日は休日だったこともあり、いつものようにバルコニーで本を読みながら、酒を舐めるように飲んでいました。そのうち酔いが心地よく回り、翔太君はアウトドアチェアの上で眠り込んでしまいました。
ふと目を覚ますとあんなに明るかった空はすっかり宵闇に染まっており、目覚めた瞬間に寝過ぎてしまったと悟りました。夏の名残もあり寒くはありませんでしたが、座ったまま眠ったせいか、体の節々はすっかり硬くなっていました。軋む関節があげる悲鳴にたえながら、部屋に戻ろうと立ち上がったとき――誰かに見られているような、奇妙な感覚が背中を這いました。
翔太君は奇妙な感覚のする方向――バルコニーの正面に建つビルを見て息を呑みました。
向かい側のビルは、土曜夜のため当然灯などは点いていません。ですが月夜でもはっきりと見えるほど、フロアには数えきれない“人影”が、ひしめき合うようにガラスの壁面に張りついていました。
姿形は頭からペンキでも被ったかのように全身真っ黒で、顔の形や服装までもが分からない状態です。
では何故それを”人”影と認識したかというと、不気味なほど奇妙にくっきりと人の目だけが判別がついたからです。いたって普通の人の目。白目に黒目。眼球が妙に生々しく、さらにみな一様に色や形そして大きさが同じなうえに、静かに翔太君を見つめています。
驚きのあまり小さな悲鳴をあげて後ずさったところ、思わず視線が下へ落ち、下の階のフロアが視界に入りました。
下の階のフロアも同様に人影がひしめき合い、やはり翔太君のみを集中して見つめています。
幾人もの黒い人影がガラスの壁面にびっしりと張りつき、眼球だけをぐっと上に向けて。
あまりの気味悪さに手にしていた本を落として、慌てて部屋の中へ駆け込みました。途中何かを蹴飛ばしましたが、それを気にする余裕もありません。
今は恐ろしさのあまり確認はできませんが、きっと上階のフロアも、翔太君を見つめる同様の人影がいたことでしょう。
その日は部屋の電気を消すこともできずに、バルコニーから一番遠く、視界を遮れる物置部屋で一夜を明かしました。
翌朝、差し込む陽射しを確認してから、翔太君は恐る恐るカーテンを開けました。
バルコニーには、昨夜蹴飛ばしたであろうアウトドアチェアが倒れたままになっています。昨日の不可思議な出来事は、夢ではなかった――そう思わせるには十分な“痕跡”でした。
視線をビルに向けないよう、慎重にバルコニーに置いてあった椅子やテーブル、七輪を片付けます。最後に本を手にとり中へ戻ろうとしましたが、数秒逡巡したのち覚悟を決めてビルのほうへ視線を向けました。
「…あれ……?」
ビルの中は、長いあいだ人が出入りした様子がない、埃だらけでごみが散乱している状態でした。
何故今の今まで、あのような状態だったことに気づかなかったのだろうと愕然としました。何故、勝手にオフィスビルとして貸し付けられ、スーツを着た社会人が出入りしているものだと思い込んでしまったのかは今でも分かりません。
翔太君はあれを不法侵入でもした若者か、浮浪者だろうと必死に思い込みました。
向かい側のビルについて、管理会社に問い合わせても良かったのかもしれません。
しかし窓ガラスにつく無数の掌と顔と思しき跡が見えたとき、その考えは霧散しました。
(だからこの物件は--)
内見時の抱いたあの疑問をふいに思い出しました。
しかし今となっては、誰かに尋ねたり調べてみようという気力は湧きません。
結局その日から半月も経たないうちに、翔太君は再び引っ越すことになりました。
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