第15話

それは、小さな違和感から始まった。


 彼が――笑ったのだ。

 ベランダから差し込む朝陽の下、スマホもテレビもない静かな部屋の中で。


 窓の外を見て、彼は笑った。



 「……なんか、あいつと来たことあったな、この公園」



 それを聞いた瞬間。

 “カチッ”という音が、頭の中で鳴った。


 それは、理性のスイッチが外れた音だった。



 「……ねえ、今なんて言ったの?」


 「え?」


 「“あいつ”って、だれのこと?」


 彼は困ったように笑った。


 「いや……ごめん、何となく思い出しただけで……」



 “思い出した”――

 それは、私が一番恐れていた言葉だった。



 私は笑顔のままキッチンに立った。

 包丁を手に取る。

 白いまな板に、トマトを置く。


 その赤い果実を、丁寧に、何度も、何度も刻む。


 でも、どうしても止まらなかった。

 手が、震えていた。



(思い出しちゃだめじゃん……)

(せっかく、あたしと“やり直してた”のに……)

(せっかく、あたしだけ見てくれてたのに……)



 トマトの赤が、まな板からあふれ出す。

 まるで――血みたいだな、と。

 ふと、そんなことを思った。



 「……ねぇ」


 私は、包丁を握ったまま振り向く。


 「あなたの“中”から、あの子、ぜんぶ出していい?」


 彼の顔が、凍りついた。



 私は包丁を置いた。

 でも、代わりにスマホを取り出した。


 そして――“彼女”に連絡を送った。

 彼のスマホから。


 内容は、こう。



『ごめん。会って話せないかな? やっぱりまだ、お前のことが忘れられないんだ』



 彼は叫んだ。


 「なにしてんだよ!!やめろよ、勝手に……!」


 私は笑った。


 「だって、あなたの中に“まだ残ってる”んでしょ? 彼女が。

  だったら、燃やしてあげる。焼き尽くしてあげる。完全に、私のものになるように」



 その日の夕方。


 彼女は本当に来た。


 何も知らずに、優しい顔で。

 何も知らずに、“最後の地獄”に足を踏み入れた。

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