第16話



 ドアのベルが鳴った。


 その音だけで、彼がビクリと肩を揺らしたのが分かった。

 私は微笑む。

 テーブルには、ハーブティー。三人分。


 ドアの前で小さく深呼吸して、私は迎えに行く。



 彼女はいた。


 細身のシルエット。ナチュラルメイク。柔らかな瞳。

 まるで――“私が奪った頃”と、何も変わらない。


「久しぶり」

「……うん」


 会話ができることに、少し驚いた。

 でもそれもすぐにどうでもよくなった。



 部屋の奥。

 彼が、青ざめた顔で立ち尽くしていた。


 私は彼女を促して、彼の正面に座らせた。

 私は横に。三角形になるように。



 「ねぇ、今日はさ、“ちゃんと”終わらせたいの」

 「……終わらせる?」


「そう。“私と彼”がどうなるか。

 “あなたと彼”がどう終わったか。

 そして、彼自身がどこを向いてるのか――全部。

 もう隠さないで、教えてほしいなって」



 彼女は黙って彼を見た。

 彼は、目を逸らした。


 静かな時間。

 その沈黙が耐えきれず、私が笑ってみせる。


 「怖がらないで。今日は“責めるため”じゃない。

  どんな答えでも、ちゃんと聞くから」



 それでも彼は黙っていた。

 答えられないのではない。

 答えが、ないのだ。



 だから代わりに、彼女が口を開いた。


 「……私たち、終わったんだよね」

 「……ああ」

 「じゃあ、未練は?」


 その問いに、彼は口を開こうとして――閉じた。



 私が先に言った。


 「未練、あるなら言って? 私は、全部受け止めてきたよね?」



 その言葉に、彼は少しだけ目を伏せて。


 「未練……あった。でも、もう終わった。

  全部、自分が壊した。だから――前に進みたいんだ」


 私は、彼女を見た。

 彼女も、少しだけ笑った。



 「なら、よかった。……私は、ちゃんと泣いたよ。何度も。

  今は……ようやく、整理がついた」


 私はほんのわずか、背筋がぞくりとした。


(……“立ち直ってる”?)



 彼が彼女の言葉にうなずいたとき、私は初めて、

 自分が“勝っていない”ことを悟った。



 彼女はもう、手放していた。

 でも私は――彼を手放せない。


 彼が選んだのは、どちらでもなかった。

 彼は、逃げたのだ。後悔と、罪悪感から。



 「……帰るね」

 彼女は立ち上がった。


 「ありがとう、ちゃんと話してくれて」

 そう言って、彼の手にそっと何かを握らせた。



 それは、ひとつまみの鍵だった。


「私の部屋の合鍵。もう使わないし、返してもらえてよかった」



 扉が閉まる。


 静寂。


 私は、彼の隣にそっと座った。


 そして、彼の手を握る。



 「ねえ。

  たとえあなたがどれだけ他人を思い出しても。

  何度でも、私が“あなたの現在”を塗り直してあげる」



 彼は、黙ってうなずいた。

 でもその目には、何も宿っていなかった。

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